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『こうもり』3話/7話

註)文通小説なので偶数話はありません。


僕がこの喫茶店を気に入っているのには、お気に入りの席がある他にもう一つの理由がある。それは店内の雰囲気だった。通りに面して広く取られた大きなガラスは、店内には十分な明るさをもたらし昼間は照明がほとんどいらないくらいだった。何年も経って色が馴染んできたくらいの木目調の壁は、いい具合に使い古したアンティークのカウンターやテーブルとイスと絶妙なバランスで共存していて、僕の求めている憩いの空間とも見事に重なっていた。さらにBGMも僕好みのものばかりで、バイト先のCDショップで同じ曲を探すことが最近の楽しみになっていた。
 僕が働いているCDショップは個人が経営している小さなお店で、人通りの少ない通りにあるためほとんどお客が来なかった。そのため仕事のほとんどがレジカウンターにただ座っているだけで済んでしまい、たまに簡単なそうじをしたり店内のCDを整理したりするくらいだった。店内にはある程度の邦楽の曲と、ボン・ジョビやマドンナなどメジャーな洋楽とで三分の二くらいを占め、残りはジャズやクラシックのものが並んでいた。中にはレコードも置いてあり、それを求めて店を訪れるお客も少なくなかった。そんな場所で働いているため、クラシックやジャズにも少しずつ興味を持つようになっていた。

 彼女はいつでも自分のことを語ることはなかった。どんな音楽が好きだとか、どこで働いているだとか、何歳だとか、そういった自分自身に関する情報は一切僕に見せることはなかった。無理に隠しているような様子でもなく、自然とそういった類の話題に触れることなく話しているようだった。僕も無理に聞くことでもないと思っていたし、彼女も僕という人間の素性に関して積極的に興味を持っている風ではなかったので、お互いの名前さえもよく知らない間柄だった。大学の友人にそのことを話したら、お前はやっぱりどこかおかしい、と言われた。



土曜日にこの喫茶店を訪れるのは初めてだった。たまたまバイトもなく、洗濯も次の日にやれば充分に間に合うくらいだったし、他にこれといってすべき用事も何もなかったのだ。店の前まで来ていつものテーブル席を覗いてみるとすでに彼女が座っていた。僕はカランカランと乾いた音を静かに響かせて店のドアを開け、いつもの席に向かった。
「こんにちは」と彼女が僕に気付き、読んでいた小説から顔を上げて言った。
「ここ、いいですか?」いつものように僕は彼女に訊ね、彼女と向かい合って席に着いた。しばらくして店員が僕らの席にやってきて、僕は紅茶を頼んだ。
「今日はお休み?休日に会うのは初めてかな」
「そうですね。僕は土曜日にここへ来るのも初めてです」
「そうなんだ。そんなに私に会いたかったのかしら?」正直言ってそれも少しあった。ただなんとなしに一人で静かに過ごすのも良いと思ったし、もし会えたなら何か話したいとも思っていた。
「ええ、あなたに会うために今日は来ました」と冗談めかして言った。
「お世辞でも男の子にそう言われるのはうれしいものね。でもそういうのは恋人に言ってあげなさい」
「いたら毎日でも言ってますよ。そしてもっともっと甘いセリフを思いついているでしょうね」
「例えば?」
「言いませんよ。男は言葉じゃなくて背中で語るものです」
「はぐらかされちゃったか」
とりとめのない会話が一段落したところで、ふと僕は大学の友人に言われたことを思い出した。僕は彼女のことを全く知らない。少しは聞いてみたい気持ちもある。それは本当だ。でも彼女の様子から考えると、あまり話したがらないでいるのかもしれない。でもいつまでもお互いのことを何も知らないでいるのも何かおかしい。友人の意見には僕もそこそこ同意している。

彼女の瞳はどこまでも深い黒色で、その奥はどこまでいっても底がないくらいに突き抜けていた。底が知れないほどの黒色の瞳は、きっとこれまでに様々な景色を映してきたがために色が複雑に混ざり合い、その結果として悲しい黒色に落ち着いたのかもしれない。それも決して幸せなことばかりではなく、不幸とか、不安とか、不満足といった言葉で表せるようなもの、さらには、僕の知っている言葉では表しきれないくらいの出来事もあるだろう。例えば何かがきっかけで彼女が泣いたとして、涙と一緒に不実な色がどれだけ落ちたのだとしても今まで見てきた絵が消え去るわけではなく、黒色はさらに純粋で深く完全な黒になっていくだろう。僕が見ている彼女の瞳はそういう類のもので、たとえ僕が彼女についてたくさんのことを知ったとしても、瞳の奥にある真珠のような部分には決して触れることはできない。悲しみさえも滲ませている彼女の瞳を見れば見るほど、彼女に触れてはいけないような気にもなるし、できることなら触れてみたいという気持ちも生まれていた。

「あの」再び小説に目を落としていた彼女に僕は声をかけた。
「なに?」
「う、うん。最近さ、思うことがあるんです」窓の外を一台の軽自動車が通った。今日の空は青い。高い建物の隙間からしか見えないがきっと快晴なのだろう。天気予報でも北海道の一部を除けば雨が降るなんてことは一言も言っていなかった。小さな子供と手をつないだ母親が窓の外をゆっくりと通り過ぎて行った。僕は、彼女自身についてはまだ聞かなくてもいい、なんとなくそんな風に思った。これから先、二人でなんとなく過ごす時間が自然に解決してくれることだろう。「たいしたことじゃないんですけどね」
「なになに?」彼女の黒目がちで丸くかわいらしい瞳が、まっすぐに僕に向けられていた。
「大宮駅の、埼京線のホームへ向かうエスカレーター。あれに乗っていると、このままブラジルまで行っちゃうんじゃないかって思うんです。どこまでも下っていく感じがすごくそわそわする」
「ああ、あれね。あれは一度ブラジルを通り過ぎて、また日本に戻ってきてるのよ。一回エスカレーターから降りて、また次のエスカレーターに乗るじゃない?あの平らな部分はブラジルよ。そこからまた下に降りて、埼京線のホームになるとまた日本ね」
「そうだったんですか。じゃあ今度あそこで壁に耳を当ててみます」
「きっとサンバが聞こえてくるわ」変な踊りをしながら楽しげに彼女が言った。

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