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『こうもり』7話/7話

註)文通小説なので偶数話はありません。


いつもの席に今日は、彼女は現れなかった。窓の外では黄昏が始まりそうな深い色を街に落としていた。バイトの時間を見計らって店を出ようとしていたとき、店のドアの乾いた音が聞こえ彼女が入ってきた。
「あら、今帰るところかな」
「ええ、ちょうど今。これからバイトなので」と僕は、名残惜しさを顔に出しながら言った。
「それは残念。また今度ね」
「はい、また」そう言って僕はお会計を済ませ店のドアに向かった。たまにはすれ違うこともある。彼女と話せない日だってあってもおかしくない。それがたまたま今日だった。仕方ない。心なしか寂しい気持がしている自分に気付きながら、今度はいつ彼女と会えるのかを考えていた。
「ねえ、待って」と彼女の声がした。いつもになく真面目な顔で僕の方を見ていた。「バイトのあと、少し時間ある?」
「ええ、ありますよ。いくらでもあります」
「じゃあここに来て。少しお話しよう」
「わかりました。いつも以上に楽しみにしてますね」と僕は言った。やれやれ、彼女は僕の心が見えていたのか。男なら僕の方からそういうことは言わなくちゃいけなかったかな、などと思いながら僕は店を出た。窓越しに見えた彼女は僕に向けて微笑みながら手を振り、窓に映った僕の顔は自分が思った以上ににやけていた。

喫茶店からバイト先までは5分もかからない。まだ時間に余裕があったので、僕は五車線道路に架かる歩道橋の上で、落ちゆく夕陽を声も出さず眺めていた。東から昇って一日中街を明るく照らしていた太陽は、最後に一番の輝きを見せながら西の海へと落ちていく。この歩道橋から海は見えないけれど、きっとそうなのだろう。今日も海は数えきれない人の涙で深い蒼となり、計り知れない悲しみを飲み込んでいる。夕焼けが眩しいのは、そんな海へと太陽が飲み込まれていくからなのかもしれない。太陽でさえもすべての悲しみを拭い去ることはできない。それでもまた陽は沈み、深すぎる海の蒼が夜を運んでくる。僕の存在なんてものは夜にまぎれた小さな黒いシミでしかない。悲しみに充ちた海に対して僕にできることはただ、波の間に白い花を浮かべる事くらいで、人のためにとか、誰かのためになんて何もできやしない。ただ、いつものように赤い日傘を差した人がその花を拾ってくれたらそれだけでいい。そんなことを考えているといつしか空には星がかすかに見え始めていた。僕はバイトに遅刻した。



「このお店って何時までやってるんですか?」と僕はマスターに訊ねた。
「特に決まってはいないです。長居してくださる方がいればその方がお帰りになるまでやっています。そうしたお客様がいらっしゃらない時は陽が傾くころには閉店になります。夜にこの喫茶店をお求めの方はそういませんから」
「僕は喫茶店の夜のメニューも気になりますけどね」
「もしよろしければなにかご用意いたしましょうか?」
「いえいえ、気になさらないでください。待ち合わせてるだけですから」と僕は言った。カランカラン、とドアの音が聞こえ彼女が入ってきた。
「マスター、このお店って何時までやってるんですか?」店に入ってすぐに彼女が目を丸くして訊いた。僕とマスターは思わず顔を見合わせ、少し笑った。
「なになに、二人して。私変なことでも言った?」
「だいぶ面白い事言いましたよ。ね、マスター」
「はい」とマスターは多くを語らずに一言だけで応えた。
「ねえマスター、夜のメニューって何かある?」と彼女は言った。
「ええ、簡単なものしかご用意できませんがお作りいたしますよ」
「じゃあ私オムライス!君は?」
「いいんですか?じゃあ、カルボナーラをください」
「かしこまりました。少々お待ちください」と言うと、マスターは奥の厨房へ入って行った。

「どれくらい待った?」と彼女は言った。
「アルバム3枚分ですかね」
「それ、バイトの時間も含めてでしょ」
「バイトの時間も含めたらアルバム4枚と小説1冊分くらいになりますよ」
「小説じゃなくて絵本じゃないの?」
窓の外は街路樹が風に少し揺れ、街灯に照らされた狭い道路には仕事帰りのサラリーマンや、塾帰りの子供が足早に家路を急いでいるのが見えた。しばらくして、マスターがカルボナーラとオムライスを持ってきてくれた。僕と彼女は作り立てで湯気の立つマスターの手料理をおいしくいただいた。カルボナーラは黒こしょうが絶妙に効いていて、最近食べた料理の中で一番おいしかった。二人とも食べ終わって落ち着いたところで、僕は言った。
「外、行きませんか。風が気持ちよさそうですよ」
「うん、いいね。そうしましょう」僕たちはお会計を済ませ、マスターに感謝を伝えて店を後にした。

「ねぇ、歩道橋の上行かない?道路よりももっと風が気持ちいいよ」と彼女がはしゃいで言った。子供のように駆けだす彼女の後を、僕はゆっくりと追いかけた。五車線道路にかかる歩道橋の上で、すでに太陽が沈んでしまった方角を二人で並んで眺めていた。僕らの後ろを、高校生らしいカップルが通り過ぎて行った。信号が青に変わるたび、途切れることなく車が僕らの下を走り抜けていく。運転手の顔までは見えないが、みんなうれしそうな顔をしているような気がした。
「ねぇ」考え事を遮るように彼女が言った。
声のしたほうに顔をやると、彼女の長い髪と、真剣な表情で遠くを見ている横顔が見えた。薄明かりに照らされた彼女の顔をよく見ると、右目の下に小さなほくろがあることに気が付いた。僕は彼女の「ねぇ」へ返す言葉を見つけられずにいた。
「夕陽が美しいのは、その日の出来事を思い返しながら見ているから。良かったことであれば、嬉しいな、って思い出して幸せになれる。嫌なことであれば、明日になったら忘れられるとか、嫌な一日がやっと終わっていく、って思える。良いことも悪いことも、すべてそのままに受け止めてくれるから夕陽を見ると美しいな、って思える。」
「夕陽が好きなんですね」と僕は言った。
「夜って優しいのよ。」僕のうわべだけの言葉はなかったかのように彼女は話を続けた。
「もし嫌なことが、夕陽が持ち去ってくれずに私の元に残ってしまったとしたら、私はどうなってしまうかわからない。簡単な言葉で言えば壊れてしまうかもしれない。壊してしまうかもしれない。でもね、私のそんな汚くて醜くて悲しくて残酷な部分も、すべて闇に隠して包んでくれるの。ちゃんと見てくれるんだけど、何も触れずに、何も言わずに、何もせずにいてくれるの。そして包まれているうちにだんだんと温かくなっていって、いつの間にか私は眠ってしまって。自分でも気付かないうちに目元に涙がたくさん浮かんで、そして朝になったら頬を伝ったはずの涙もすっかり乾いていて、今度は柔らかな朝の光が私を静かに揺り起こしてくれる。」
「うん」
「なんて、そんな想像をしてみました。」と、いつもの屈託のない笑顔を僕の方へ向けて彼女が言った。
きっと、僕が思っている以上に彼女の抱えているものは重く大きいのかもしれない。毎日ただ時間が流れていくだけの不毛な日々を過ごしているのかもしれない。それでも日々の時間の中でなんとか彼女なりに必死に物事を考えて、目の前にそびえる壁を乗り越えようと毎日を懸命に送り、今こうして僕の隣にいるのかもしれない。
「あ、見て、流れ星!」彼女が僕の顔を遮るように右手を伸ばし、僕はその方向へ目をやると、ビルのすぐ上辺りに星が見えた。何かの星座かもしれないその近くに、また流れ星が流れるだろうか、彼女が見ている景色と少しでも同じ景色を僕も見られるだろうか、と思い僕はしばらく流れ星を待った。
「もう流れないかな」と言いながら彼女の方へ顔を戻すと、そこに彼女の姿はなかった。

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