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- 怜 -
天井。
目が覚めた。寝ようと試みた覚えはなかったけれど、最近読んでいた小説を手にしている様子から考えると、本を読みながらいつの間にか寝てしまっていたようだ。指が最後のページに挟んである。意識を失くす直前の記憶を辿ると、女の、『私たちは生きていさえすればいいのよ』という最後の一文のみ、海馬で鮮やかに存在感を示していた。
ベッドからゆっくりと体を起こす。いくつかスペースが空いている本棚の隣で、水槽がコポコポと水泡を弾き、小気味よいテンポで音を立てている。その中で、2匹のマダコが海を模した小さな世界でそれぞれ佇んでいた。片方は岩場、片方はガラスに張り付き、今日の予定を練っているのか、食事のことを考えているのか、自身の運命を憂いているのか。
しばらく眺めていたマダコのいる水槽から時計に目を移すと、11時を回ったところだった。
そして、この時ようやく、この時間に本来自分がどこにいるべき人間なのかを思い出した。
急いで体を起こし、足早に寝室の隣にあるリビングへ入ると、端正な顔立ちをした若者が、2人がけの大きく沈むソファに深く腰掛けながら脚を組み、本を読んでいる様子が目に入った。
「青、なぜ起こしてくれなかったの?」
小説に向けていた目をゆっくりと私に向け、彼は微笑みながら、緊張感のない高くも低くもない中性的な声で、怜、おはよう、と言った。
「質問に答えて」
「君があまりにも気持ちよさそうに寝ていたものだから」
そう言って青は、もう一度読んでいた小説に目をやり、読んでいるページの溝にスピンを丁寧に通すと、やはり緊張感のないゆっくりとした動作でぱたりと閉じた。いつ見ても、なにをしていても所作に余裕、品があり美しい。17で同じ歳だと彼が以前言っていたけれど、纏う雰囲気から、その言葉を信じるにはおよそ説得力が足りない。
「物語の世界からこちら側へ呼び戻すのは無粋な気がして。ああ、家中に鳴り響く姦しいアラームは切っておいたよ」
「11時…。休も」
「いいの?学生の本分は勉強だよ?」
「いい。遅れて入っていった教室で向けられる奇異や興味の目が不快なのよ。それに、あなたもその歳で学校に行っていないでしょう。」
「痛いところをつかれているようだけれど、私はそもそも教育機関に所属していないのだから…」
理屈をこねだした彼の言葉を無視して寝室に引っ込む。この状況に陥ったが最後、気がつけば決まって私が懐柔されて終わるのだ。こういった下らない対立ですら、口論では彼に勝った試しがなかった。だから最近は、彼がゆっくりと話し始める間にその場から逃げることにしていた。勝てない勝負に乗る理由はない。
ついさっきまで私が寝ていた、体温を感じるベッドにもう一度体を投げる。
私はこうしてぼうっと眺める天井が好きだった。なにかそこにあるわけではないけれど、なにもそこにないというところが好きだった。
日々生きているだけで蛆のように無限に湧く私の感情を、肯定も否定もせずにただそこにいるだけの天井が好きだった。そこに意思はなく、例外なく受け入れることも拒むこともしない。
本来であれば、教室の窓際、前から3つめの机で黒板とノートを交互に見ながら異国の言葉を書き写しているところだけれど、私は今、寝室で悪びれることなく横たわっている。ゆっくりと目を閉じた。このままだとまた寝てしまいそう。耳の中で呼吸の音が響く。それに混じって、幼稚園生 - 4、5歳くらいだろうか - 複数人ではしゃいでいる声が、閉め切っている窓を貫通し微かに聞こえてくる。久しぶりにカラッと晴れた良い天気だから、うずうずした気持ちに手を引かれ外に出てきたのかもしれない。それほど、今年の5月は雨が多かった。ただ、まだ梅雨に入った訳ではないらしい。梅雨でなければなにか、と思うけれど、気象庁でも原因がよく判っていないらしかった。せっかちな梅雨が足早に訪れたと思われたけれど、早く退けと煽り立てる驕傲な梅雨を、暮春が頑なに拒み動かんとする様子が頭に浮かんだ。大声で威圧し凄む梅雨に怯えながらも、春としての矜恃を全うしようと暮春は涙目できっと睨んでいる。取り入らない暮春を力づくで退かそうと梅雨は雨を降らすが、暮春はそれに屈することなく優しく世界を照らす。今日の天気は、そんな様子を感じた。南向きの窓から光が入り込む。昼寝には申し分ない、心地良い部屋の温度が眠気を誘い、水槽からきこえる水泡の音もまた心地よく、他愛もない妄想を浮かべながらまどろんでいた。
ぐう、とお腹が鳴った。気づけば1時間近くもの思いに耽っていたらしい。時計のてっぺんで二本の針は今にも重なりそうなほどに近づいていた。
さて、今日一日をどう過ごそうか。もちろん学校に行く気は更々ない。とりあえず外にでも出てみようかと思い再び体を起こす。寝室のドアを開けリビングに入ると、青は先程の姿勢を全く崩すことなく脚を組んだ状態で本を読み続けていた。
この街に来て1年と3ヶ月ほど経ったが、この街の昼の顔を私は知らない。夜はたまに散歩をする日もあったが、平日の日中は学校があるし、週末は本を読み家の中で過ごすことが殆どだった。だから、 「 街 」 として機能しているこの街を見たことがない。
歯磨き粉が私の口の中で泡となって口角から溢れてきた。吐き出す。
散歩でもしてみようか。ちょうど家にある全ての本を読み終えたところだし、いくつか新しいものを買おう。気に入る古書店でもあればいいのだけど。本を買ったら気の向くままにほっついてみようか。また、口角から泡が飛び出す。吐き出す。顔を洗い歯磨きを終え、寝室に戻り服を選ぶ。コットン地にブラウン、モスグリーンなどの落ち着いた花の刺繍が施されているチュニックシャツに黒スキニーというシンプルな装いに決めた。一番先に目に付いたというそれだけの理由だけれど、機動性デザイン共に春の散歩というコンセプトに合っているものを選べたのではないだろうか。服飾について詳しい訳ではないけれど、服のデザインにはある程度こだわりがあった。一方で青は、天候や時期に関係なく常に黒い服しか着なかった。
家を出るためにリビングを通ると、出かけるの?とあおが声をかけてきた。散歩してくる、とだけ言うと、そう、いってらっしゃいと言って微笑み、また本に視線を落とした。
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