八月十日
あまりの空腹に耐えきれず、太陽が皮膚を焦がす殻の外へと身を投じました。
水分を多く含んだ空気。空気中で熱エネルギーによって温度を上げるそれは、私の容体に必要以上の接触を求めているようでした。隙をみせれば私に入り込み、自我を冒す機会を伺っているようでした。
際限なく頭上に広がる青と陰湿にまとわりつく目には見えない彼ら。この国の夏を感じながら、日傘をさしてメランコリーな私が歩きました。
帰り道。
蝉が鳴いている。人とすれ違った。私の視界は傘に護られている。影とアスファルト。
蝉の声と細流に混じり、前方からタイヤとアスファルトが擦れる音が聞こえた。
反射的に顔を上げました。傘に護られていた視界は私の意志によって傘の庇護を払い除けました。
瞳孔が開いていく感覚をしっかりと感じました。その目の前の景色から目を離せなくなりました。様々な色が、私の意志に反し無遠慮に私の目に流れ込んできました。
驚きました。
私の世界はなんと美しいのだろうと涙をこぼしてしまいました。
ああ、なんと傲慢なことだろうか。私はまだ世界を知りませんでした。
際限のない青などと表現したことを恥じました。眼前には空と私が知りえない文明が遺した軌跡と人々の暮しが、名状し難いほど美しく存在しておりました。
この土地に越してきて、もう何百回もの往復を繰り返しているこの道がこんなに美しかったことを私は知りませんでした。
私はこの姿を遺さなければならない。二〇二一年の八月十日に、こんな美しいものが存在していた事実を、世界に忘れさせてはならない。私が護らなくてはいけない。
とても暑い日だったので一日殻に閉じこもろうと思っていたところでしたが、外に出る決心をしました。靴を履かなくては。
家に着き、私は私の正装に着替え、またすぐに家を出ました。もちろん、日傘はさして。
葉に葉の影が重なり、地球の息づかいが葉を揺らして、影があとを追う。
他の季節にはない輪郭のはっきりした、彼らが世界に確かに存在している証拠が、世界の一部を翳らす。
公園に佇む原色の遊具。赤と青と黄に彩られた鉄パイプが組み合わさり、ドームの形をしていた。動かず、話さず、静謐な空間で主を待っていた。
男の子が私に話しかけた。蝉をたくさん獲ったのだと、私の手より二回りも小さい手に握りしめられた沢山の蝉を見せてくれた。蝉取りは好き?と訊くと、好き。こんなに沢山獲ったのは初めてだよ。楽しい。と、言っていた。
神社の木に止まり蝉が鳴いていた。お稲荷様が祀られている神社で、二匹の犬がお利口さんに座っていた。セスジスズメの幼虫が川沿いの石垣を活き活きと歩いていた。
私はいつかこの日を思い出すだろう。何年後か、あの日こんなことを考えていたと、ふと思い出すかもしれない。今日、外に出ようと思わなければ出会えなかった景色達があったように、膨大な数の景色が世界には存在していた。否、私が出会ったことによって、景色達は世界の一部になった。
たった今この瞬間に死んでしまうかもしれない私は何年後まで今日見た世界と私の記憶を思い出すことができるだろうか。いつか今日の自分が残した付箋に目を留めて偲ぶ時を楽しめたら良いなと思った。
私は、四季で夏が一番嫌いでした。
些細なことで狼狽し、全てに辟易し、醜い自分自身と矢鱈に向き合わせ、お前は醜い存在であると脳内で反響する夏の声が嫌いでした。
私の生まれは九月なのだけど、胎内にいた頃になにかあったに違いありません。(覚えていないけれど)
でも、もしかすると、夏が一番私を美しく映し出してくれる季節なのかもしれません。
夏ほど私の感情を揺さぶる季節はありません。夏ほど、私を空っぽにする季節はありません。夏ほど、私は美しいのだと教えてくれる季節はありません。夏ほど、私はひどく醜いと教えてくれる季節はありません。夏ほど、世界は美しいと教えてくれる季節はありません。夏ほど、世界が恐ろしいものに溢れていると教えてくれる季節はありません。
夏ほど、私が存在を疑う季節はありません。
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