あの世界線においてエクスターミネーションが発生した過程とそのポジティブな役割に対する考察(という名の妄言)


はじめに

筆者は特定の宗教を貶めたり、批判する意図は全くありません。
該当作品にはまって初めて調べていることもたくさんあり、内容や認識に大いなる誤りが含まれている可能性があります。むしろ妄想こじつけが内容の大部分です。間違いや指摘事項がある場合、なるべく優しく教えてください。出典や参考となる書籍がありましたらそれも知りたいです。
また、嫌いなキャラクターはいませんが、特定のキャラクターを贔屓しているので、全員に対して平等な記述はできません。
あと日本人ですが普通に日本語が下手です。
 
以上、あらかじめご了承のほどよろしくお願いいたします。


1.         エデンでの出来事

前提として、該当作品は聖書や基督教における教え等を踏まえた構成をとられており、本考察という名目の妄想においても前述した宗教の内容に触れた上で持論を展開していきたい。

まず神がこの世界を創造したすべての始まりを天地創造と呼び、その工程は以下のように記載される。

1日目 神は天と地をつくられた(つまり、宇宙と地球を最初に創造した)。暗闇がある中、神は光をつくり、昼と夜ができられた。
2日目 神は空(天)をつくられた。
3日目 神は大地を作り、海が生まれ、地に植物をはえさせられた。
4日目 神は太陽と月と星をつくられた。
5日目 神は魚と鳥をつくられた。
6日目 神は獣と家畜をつくり、神に似せた人をつくられた。
7日目 神はお休みになった。

(引用元:天地創造 - Wikipedia

ここでは全ての創造物の中で最後に作られたのが人間であり、神に似せた似姿であることが分かる。
また、光と闇、天と地、太陽と月(と星)、魚と鳥のように、多くの物は対比構造を成すものとして作られ、後に男性の対比としての女性が生み出されることとなる。

男性と女性の対となる者たちは一般にアダムとイブと呼ばれ、宗教に疎い私のような人間でもなんとなくその概要については認識しているところだろう。
念のため、Wikipedia記事を引用する。

旧約聖書『創世記』によると、アダムの創造後実のなる植物が創造された。アダムが作られた時にはエデンの園の外には野の木も草も生えていなかった。アダムはエデンの園に置かれるが、そこにはあらゆる種類の木があり、その中央には生命の木と知恵の木と呼ばれる2本の木があった。それらの木は全て食用に適した実をならせたが、主なる神はアダムに対し善悪の知識の実だけは食べてはならないと命令した。なお、命の木の実はこの時は食べてはいけないとは命令されてはいない。その後、女(ハヴァ)が創造される。蛇が女に近付き、善悪の知識の木の実を食べるよう唆す。女はその実を食べた後、アダムにもそれを勧めた。実を食べた2人は目が開けて自分達が裸であることに気付き、それを恥じてイチジクの葉で腰を覆ったという[2]。
この結果、蛇は腹這いの生物となり、女は妊娠と出産の苦痛が増し、また、地(アダム)が呪われることによって、額に汗して働かなければ食料を手に出来ないほど、地の実りが減少することを主なる神は言い渡す[3]。アダムが女をハヴァと名付けたのはその後のことであり、主なる神は命の木の実をも食べることを恐れ、彼らに衣を与えると、2人を園から追放する。命の木を守るため、主なる神はエデンの東にケルビムときらめいて回転する炎の剣を置いた[4]。
その後、アダムは930歳で死んだとされるが、ハヴァの死については記述がない[5]。また、「善悪の知識の木」の実(禁断の果実)はよく絵画などにリンゴとして描かれているが、『創世記』には何の果実であるかという記述はない。

(引用元:アダムとエバ - Wikipedia)

要約すると、エデンのど真ん中に置かれた食べてはならない木の実を蛇に唆されて食べて、やべ裸じゃんとなり、楽園を追放されたという話である。

該当作品においては蛇とはルシファーが擬態した姿であった。
また、余談ではあるがアダムとはヘブライ語での「土」と「人間」の二つの意味を持つ言葉に由来した名前であり、イブは「生きる者」や「生命」といった意味がある。原材料や種族名、分類名が名前となっているあたり、男女を区別する概念はあっても個人はそれほど区別される段階ではなかったことが推測できる。

ここで一つ疑問に思うことがあったので、調べてみた。それは「善悪の知識の実」「知恵の木の実」とは一体どのような効能があり、「裸である」ことに対する羞恥心が発生したのか、ということである。

Wikipediaの単独の記事によると、以下の解説がなされている。

エデンの園の中央部にあった2本の木のうちの一つ。もう一つは生命の樹。知恵の樹の実を食べると、神と等しき善悪の知識を得るとされる。知恵の樹の実はいかにも美味しそうで目を引き付けるとされる。
『創世記』によれば、人間はエデンの園に生る全ての樹の実は食べても良いが、知恵(善悪の知識)の樹の実だけは、ヤハウェ・エロヒム(エールの複数形)により食べることを禁じられていた(禁断の果実)。なぜなら知恵の樹の実を食べると必ず死ぬからである。

(引用元:知恵の樹 - Wikipedia)

『神と等しき善悪の知識』を得て、急に羞恥心が芽生えたのは何故だろうか。善悪理解→即裸は恥ずかしいとなるのは些か飛躍しているように思える。
神と同等の認識によって裸が悪(または恥)だとなるのであれば、前提として神は人間は裸であることは恥ずかしいことと思っているし、そのうえでアダムとイブに裸での生活を強いていたことになるのではないか? もしそうならちょっと悪趣味だ。
自分に似た姿かたちの存在を作っておいて、何故裸のままにしたんですか? 有識者の方教えてください。

あとついでに言えば、想定していた通りわざわざエデンのど真ん中に知恵の木を植えたのは神が人間を試したのだという記載もある。
試し行動、割と悪趣味である。

別呼称の「知恵の木の実」についても考えてみる。その名前の通り、木の実を食べたことで知恵が生まれたとの解釈だ。
ここで、知恵という言葉の意味について、きちんと定義しておきたい。

デジタル大辞泉での解説によると、「物事の道理を判断し処理していく心の働き。物事の筋道を立て、計画し、正しく処理していく能力。」とある。
アダムとイブは木の実を食べて初めて、物事の道理を理解し、そして今しがた取ったばかりの「神によって禁じられた行為を行う」ことが悪であると知るのである。

また、それによって自分たちが裸であることを初めて客観的に認識したのかもしれない。だが、別にそのこと自体に良い悪いがなければ、「裸だなあ」となるだけだと思う。

前述したが、神の創造されたものには対比構造を取っているものが多い。昼と夜、天と地、太陽と月、鳥と魚といった具合だ。
知恵を得て、自己という存在、そして対比的に他者の区別ができるようになった。そこで初めて羞恥は羞恥たりえるだろう。
『羞恥心』について、実用日本語表現辞典では、以下のように説明されている。

羞恥心(しゅうちしん)とは、自己の行為や状態が他人から否定的に評価されると予想し、それに対する不快感や恐怖を感じる心理状態を指す。自己の行動や態度が社会的な規範や期待から逸脱していると認識した際に生じる感情である。羞恥心は、個人が社会的なルールを守るための重要な役割を果たす。また、羞恥心は他人との関係性を維持するための感情とも言える。
(2023年9月29日更新)

(引用元:羞恥心  - 実用日本語表現辞典)

羞恥心とは、自分の過ちや思い違いなどによって生じる苦しい感情のことである。簡単に説明すると、はずかしい気持ちになり屈辱感を味わうことである。英語では恥の意味を持つ shame と表現する。羞恥心は、対人関係を有した上で成り立つ感情である。言い換えれば、人を介していないと存在しないため、人が下す判断によっては恥ずかしいという気持ちが覆されることもある。
(2020年8月18日更新)

(引用元:羞恥心  - 実用日本語表現辞典)

二人は羞恥心を知り、体を葉によって覆い隠すという行動をとった。
だがこの「覆い隠す」という行為、引いては「神に対する隠し事」は、善と呼ぶことができるのだろうか。

否。現地の管理者が情報共有を意図的に怠るようになったら上司としては非常に困る。管理に支障が出るし、状況の把握ができない。
そもそも、やるなって言ってあることをやった上で隠しごとをしてくるのだ。普通に現場の管理に向いてないので、クビという名の楽園追放の処罰を受けても仕方がないのではないか。

 追放後にもアダムとイブの物語は続き、息子同士で殺しあったりだとか色々なことがあるのだが、それは現時点での該当作品においてはさほど重要な点ではないようなので割愛する。

   

2.         知恵の木の実の影響としてのエクスターミネーション

知恵の木の実が善悪や自他をもたらしたという話が前の項目での大まかな内容ではあるが、決してそれだけではないということには予め触れておきたい。「知恵」の言葉の意味は「物事の筋道を立て、計画し、正しく処理していく能力。」とはすでに記載した通りである。

つまり、「知恵」とは、局面や状況のピンポイントな部分だけを見て判断するのではなく、過去や未来、周囲の状況や類推に基づいて取るべき行動を導き決定する能力とも言える。
知恵の木の実を食べたことで、「~なのではないか」「~が起こるかもしれない」という推測能力、同時にまだ起こってもない事象に対する期待や不安といった感情が副産物的に生み出された、とも言い換えることができる。

善悪が生じたことで地獄が生まれた。死者は生前の行いによって裁かれ、天国にも地獄にも元人間が存在するようになる。あの世で生まれの純粋な天使や悪魔の数を、死んだ人間の数が超えてしまうのにそんなに時間がかからなかったはずだ。
かつ、現世のように寿命をもって新陳代謝の行われる組織とは異なり、何か大きな転換でもない限り、あの世の組織には無尽蔵に人員を補給されまくることになる。

過剰な人口増加問題に地獄だけ悩んでいるというのは、あまり考えにくい。天国だって土地に限りはあるだろう。ではなぜ地獄にのみ人口の間引きが行われているのか

 

該当作品内の曲中で、アダムは『徳を積んで天国まで来たものに与えられた娯楽なのさのエクスターミネーション』と歌い上げている。
ここで言えることの一つに、アダム自身もおそらくは楽園からの追放後の大いなる徳を積んだ結果として天国にいるのだろうということがある。さらにアダムの例を取って言えば、一度何らかの「悪」を犯した者でも、その後の善行次第では十分に天国に行きうる可能性も十分にあるのだろう。

一般的な心理の話にはなるが、人間は自分を軸にして考えるものである。
自分にできる仕事は他人もできて当然だし、これくらいのこと知っているよねみたいな態度をとる人は社会でも一定の割合でいる。
これを心理学では自己中心性バイアスと言う。これは認知の歪みであり、もっと言うならば「こうしてほしいのだから、こうできるのが当然」ということだ。その根拠として、だって私はできるもんという最も短絡的な一例を引っ張り出してきているに過ぎない。

アダムにしても、罪人に対して同じことを思っているかもしれない。
エデンの管理なんていう一大プロジェクトの失敗を経て、そこから驚異的な復活を遂げた者には、たかだか自分一人の失敗を覆せない程度の人生なんてと、アダムが罪人に怠けや甘えを感じていても納得してしまう。私にできてお前ら子孫に挽回ができないの、なぁぜなぁぜ? と。
英語版での” Had their chance to behave better, now they boil in a pot”(直訳:彼らにはもっと良く振る舞うチャンスがあった、今彼らは鍋で煮えている)の部分からもその意識を感じ取ることができる。
神は挽回の機会をお与えになっていた。それを無駄にしたのはお前らだろう、というわけだ。

もっとも、Wikiにはアダムは930歳ほど生きたとありで、せいぜい長くても100歳程度の寿命の人間とでは、前提となる条件が違うのだが。

 

さて、死後の審判について話を戻す。
天国行きか、地獄堕ちか、その審判の基準は作中では明確にされていない。生前に善行だけを積んできた、あるいは悪行だけを行ってきたなんて極端な人間は恐らくは存在しないように、心のすべてか善か悪かで染まりきっている人間もいない。

審判の際には、行いの程度や善行の多寡によって判決がくだるのだろうか。
あるいは、善行はポイントをプラス、悪行はポイントのマイナスをしていき、死んだ段階でのトータルポイントでその人間の全てを測ろうとしている可能性すらある。
死んでからでないと分からないため、全ては妄想である。

ここでは一旦、天国へ行った者を全体的に善行に励んだもの、地獄に堕ちた者を比較的悪いことばかりしてきたやつ、という曖昧かつ主観的な定義で進めていく。

 

話は若干逸れるが、人間の心は善と悪のどちらに染まりやすいだろうか? 白い壁を汚すのと、汚れた壁をきれいにすることとはどちらが簡単だろうか? 無害な水にたった一滴の毒が混入したものを、無害な水と呼ぶことができるだろうか? あるいは、コップ一杯の毒に少しの水が混じったものは、無害な水として扱うことはできるだろうか?

私としては、より害をもたらすものの存在の方が、より心や記憶にとどまりやすいと考えている。多くの人に肯定的に扱われ、あるいは多くの人に認められているような人でも、少しの毒マロに大いに心を痛め、傷つき嘆いているのを見たことがあるかもしれない。
この心の動きは人間の進化の過程における生存戦略の一つで、うまくいった狩りについて強く記憶に留めるよりは、逆に狩られて死にそうになった時のことを教訓として学びを得た方が、結果として長く生き抜くことができるというわけである。恐怖や猜疑心や絶望といった、負の側面の感情に関しても同じように、強く記憶に残りやすいと言える。

更に主観的な観点について言えば、人間は「してもらったこと」よりも「してあげたこと」の方がより覚えている生き物である。アメリカの大学での研究で、人から「してもらった」ことよりも、「してあげたこと」の方が35倍覚えているとかなんとか。人は貰ったもんよりあげたもんについて覚えてるってことですね。
でもちょっとこれについては調べたけど信ぴょう性のあるソースが見つけらなかった。言及しているブログ記事なんかは見つかったけど。論文やデータ等の信ぴょう性の高いソース元をご存知の方、教えてください。

ともかくここで言いたかったのは、私たち人間は善より悪に流されやすく、自分の行った善行については記憶しやすい性質があるということである。
地獄に堕ちた罪人は己の数少ない善行を強く覚えているし、天国にいる被害者は自分が受けた被害を決して簡単には忘れられないのだ。

 

人間、死んだからといって生まれ持った性質が逆方向に振り切れることはそうそうなく、むしろ特色が強まるというのは、該当作品における描写からしても明らかである。
地獄に堕ちた連中は、殺したり薬に手を染めたり洗脳したりと文字通りやりたい放題だ。天国にいる比較的善なる人間や天使たちが見たら印象は最悪である。

さらに言えば、天国にいるのは、地獄にいる連中の直接の被害者、被害者家族、あるいは迷惑や被害を受けた関係者かもしれない。
もしくは自分への直接的な加害者でなくとも、自分が受けたのあるのと同じ加害行為をした罪人が、少しも反省をしていないように見えるとしたら、やりきれない思いになってしまうであることは想像に難くない。

エクソシスト軍の罪人に対する思いは、ただ単純に悪いことをしている奴が気に入らないのではなく、実際にはもっと複雑で人間らしい心理が隠れているのではないかと思う。

この段階でようやく効いてくるのが、人間に生じてしまった「まだ訪れていない未来・状況を想定し、勝手に不安になる」機能である。生前の悪行が原因で地獄に堕ちてそれでも尚蛮行の限りを尽くす存在を前に、天国に歯向かってくるかもしれないことへの恐怖心が生じ、だから何か手を打とうと考えるのは、人間の心理として少しも不思議なことではない
それに、ルール無用の捨て鉢の連中を相手にお行儀よく戦いを挑んでいたのでは、どう考えても律儀にルールを守っている方が不利だ。

以上を踏まえた上で生み出されたのがエクスターミネーションだとすると、地獄の人口増加だけがその理由ではないと言えるだろう。

 

3.         娯楽としてのエクスターミネーション

引用したアダム主体の曲(という名の主張)の中でも、とりわけ印象的な部分として、『娯楽なのさエクスターミネーション』という部分を上げる人もかもしれない。
地獄のプリンセスにしてこの物語の主人公である彼女が、あれこれと手を打ってエクスターミネーションの廃止を訴えるシーンで、その言葉を阻止してまで歌い上げたのがこの言葉なのだから、印象的だし衝撃的である。曲としても耳に残りやすい。

さらに言えば、一般的な意味合いとしてのエクスターミネーション(根絶、絶滅)全般が娯楽なのではなく、きちんとした手順で天国行った連中にとって地獄の罪人を殺すのが娯楽なんだよ! というような意味合いのことを、日本語でも英語でも歌っている。
よっぽど重要な意味合いに違いない。筆者がこれを最初に聞いたとき、天国ってそんなに娯楽がないのかと、規律だらけで融通の利かない天国というものを思い浮かべた。それはある意味では正しいし、ある意味ではもっと大きな視点が足りていないともいえる。

前述したように、天国の元人間の中には、直接的あるいは間接的な部分で心に深い傷を負わされた者がいる。生きている人間にしてみてもそうだが、ひどいこと、悪いことをした人間に対して厳重な処罰を求めるのは、やはり自然な心の動きだと言える。
では該当作品における地獄は、処罰や刑罰として機能していると言えるだろうか?

 

別作品の話題にはなるが、鬼灯の冷徹をご存知だろうか。こちらの作品は、日本の地獄で裁判及び刑罰担当部署全般の管理・運営を担う鬼を主人公としたギャグ漫画である。上記の説明だけでも日本の地獄が非常に組織的であり、徹底的な管理下にあることが分かるだろう。
実際、この作品に限らず日本の地獄は各種罪状に応じた罰が用意されていて、地獄としての種別も八大地獄、八寒地獄とバリエーションに富んでいる。より重大な罪には大きな罰を、軽微な罪状の者には小さな罰をといった具合に、生前の罪の程度に応じたおもてなしが用意されている点も非常に管理的である。一言で表すならば、株式会社地獄に、それぞれ拷問担当部署があるといった具合だ。

それを踏まえて該当作品内で観測できる限りの地獄を見ると、とてつもなく無秩序で倫理に欠如した人たちの大勢住む、ありえないほどに治安の悪い地域、という印象を覚える。しかし治安は悪いが娯楽施設は存在し、テレビやスマホ等の新しい技術も積極的に導入されている。
死ぬほど治安が悪いが行動の自由のある場所に未来永劫住まなければならない、というのは刑罰として十分なのかはやや疑問の残るところだ。

無論、地獄の成り立ちや文化的背景が違う以上、その性質が違うのは当然のことである。
だが該当作品における地獄では強さがあれば死後の生活をある程度謳歌できるのも確かで、その上残忍で残虐な性質をもった者(多くは生前においても相応の罪を犯してきている)ほど地獄で幅を利かせることができるのだ。

考えてみてほしい。自分に対して、家族や友人、大切な人に対して、ひどいことをした怖くて憎いやつが、強く狡猾であるがゆえに、地獄のわちゃわちゃライフをエンジョイしているのだ。これはもう来世とか贖罪とか生ぬるいこと言わずちゃんと死んでくれ、となってもおかしくないのではないか。

だからこそ、『娯楽としてのエクスターミネーション』、もっと踏み込んだ言葉で言えば『救済としてのエクスターミネーション』が成立する。

余談ではあるが、歴史的にも女性の方が虐げられてきた時代が長く、対個人としても男性と対峙したときに力では叶わず、かつ女性の方が血に対する抵抗がない。そういった前提のもと、そんな彼女たちに権力と純粋な強い力、武器や機会が与えられるとなれば、エクソシスト軍が女性ばかりというのも頷ける話である。まあ実際アダムの趣味だとは思うが。

 

4.         アダム個人にとってのエクスターミネーション

すでに触れた内容と重複する部分もあるが、最初の人間として、人間が罪に染まる要因の遠因となり、エクソシスト軍を(おそらくは長年)率いていたであろうアダムにとって、エクスターミネーションとはどんな存在だったのかを考察していきたい。

作中において、エクソシスト軍の人員は入れ替わりがあるのか、志願制なのか、任期はあるのかといった部分は語られていない。とはいえ、復讐心の炎や娯楽としての楽しさが無制限かつ無期限に続くものとも到底思えず、ある程度の周期で一部のメンバーが入れ替わるような方式で軍が成立していたものと仮定する。

そんな環境において、最初から、あるいはほとんど最初期からエクスターミネーションの責任者を続けていると思われるのがアダムだ。アダムとて人間として創られたからには怒りも喜びも有限であり、断じて楽しさ一点だけでエクスターミネーションを続けてきたわけではないはずだ。
となると気になるのはその原動力だ。

私はここで、アダムのエクスターミネーションへのモチベーションや目的を、以下のように仮定する。どれか一つに該当しているのではなく、複数の要因が絡み合っているものと筆者は考えている。

⚫︎ストレス発散
⚫︎自己の存在証明のため
⚫︎神の呪い【追記】
⚫︎天界での地位確立のため
⚫︎他の天使から仕事として与えられた
⚫︎本能としての殺戮【後ほど追記します】
⚫︎創造主たる神が喜ぶと思っている【後ほど追記します】
⚫︎罪人である子孫たちの尻拭い、天国にいる子孫たちへの償い

他にも要因とするところはありそうだが、ひとまずは大きくこんなものとする。さらにこの項目を分類すると内向的要因と、外交的要因とに分けることができる。簡単に言えばアダムの内面の問題と、他者の存在が絡んでくる外交的要因とがあるということだ。

ストレス発散や存在証明などは、説明するまでもなく内向的要因と言える。特に存在証明については、労働を通して社会の繋がりを得て自己を確立するものであり、その仕事内容はともかく、現代の社会人にとっても理解できなくはない動機といえよう。
まして、寿命もなく飲食等に困ることのない天国では、意識的に他者との繋がりを持とうとしない限り、年単位で誰とも話してないとかあり得そうな話である。

地(アダム)が呪われることによって、額に汗して働かなければ食料を手に出来ないほど、地の実りが減少することを主なる神は言い渡す。

(引用元:アダムとエバ - Wikipedia)

【追記】自分で引用した部分を読み返していて気が付いた。アダム、普通に呪われてた。要するに働かなくちゃ食べていけないということでしょ。アダムともあろうお方がそんな……。世知辛すぎやしませんか?
一度死んで天国に行った後でもこの呪いが有効かは分からないが、神直々に呪いをかけるというのは割と大ごとな感じがする。あとこの呪いってアダムが労働しなければならない理由にもなるし、割と呪われたままであってほしい。

外交的要因としては、地位確立、天使からの要望、創造主へのアピールが当てはまるだろう。作中においても功績は好きという旨の発言をしていることから、アダムは天界での立ち位置に一定の関心があることが伺える。

天使からの要望、仕事としてのエクスターミネーションについては、いくつか妄想の根拠とする部分がある。
一つは、天使は人の話を聞かないというルシファーの発言だ。仮にエクスターミネーションがアダムや元人間側の発案だったとして、天使が素直にその提案に耳を傾けるとは到底思えない。天国や天使側に利があるが、天使としての実績に汚点を残したくない、新しいことには手を出したくないなどの理由で押し付けられたと考える方がむしろ自然だろう。

二点目の根拠として、1話でアダムがチャーリーに向けて指し示した契約書の記載である。紙面には“FUCK YOU I DO WHAT I WANT”とある。他にはアダムが書いたらしい落書きがあるのみで、エクスターミネーションのやり方や期間などの条件は一切書かれていない。アダムにエクスターミネーションに関する一切が丸投げされているということが分かる。
また、この文言の主語がIであり、エクスターミネーションの主体がアダムとなっている以上、この契約書を記入したのはアダムだ。アダムは誰かに”FUCK YOU”と言いたくなる気持ちを抑えきれず、そのまま記載し、契約書として残っているのだ。

自分から言い出した契約で”FUCK YOU”とかわざわざ書くか? というのが、根拠としての二つ目だ。誰かに持ちかけられた契約でなければこんなこと書かない。
まあ、誰かとは書いたが、多分セラあたりとの契約なんじゃないかなと思ってる。セラはアダムのことあまり好きじゃなさそうだし。神があそこまで気にかけてたのに結局知恵の木の実食べちゃったし、それで同僚のルシファーも左遷されちゃって人員減ったし。お前のせいだぞ反省してんのか? 的なね。あと、単純に下品という理由がありそう。知らんけど。


5.         最後に

最終的に何が言いたいのか、書いてて迷子になってきたので要約します。

知恵の木の実は人間に善悪と自他の分離、未来への不安などをもたらした。
慈愛に満ちてそうな感じの天国勢だって、地獄の罪人には複雑な気持ちを抱えているし、怖がってると思う。ちゃんと罰したいし、何してくるかわからんから先手を打ちたいと思うのは自然なこと。
アダムも、まあ割と自分に悪い部分もなくはないとは思ってるけど、罪人たちの気持ちはよく分からない。挽回できたじゃんか。
善行をしてきた方の子孫を守りたくなるのはそれはそう。

と言ったところでしょうか。

決して書いていて疲れたから一旦終わりにしたいわけではない。
でも多分後で加筆修正します。日本語が下手すぎる。

追記したい項目:
●8話でのアダムの発言に関して
(あのアダムだぞ! は、神の作りたもうた存在としての自分に固執してる感じがすごかった。普通にお父様が喜んでくれるものだと思ってエクスターミネーション続けてたらどうしよう)
●エクスターミネーションの問題点
(軽微な犯罪を犯したばかりの罪人も、生まれや環境のせいで犯罪を犯さざるを得なかった罪人も、みんな一緒くたにして共存しているのが作品世界における地獄である。むしろそういう弱い方の罪人ほどエクスターミネーションにおいてターゲットにされやすそうなのはあまり良くない)
●「地獄は白黒覆されない」
(何でそんなことを言い切れるんだろう。アダムも既に色々なことを試したうえでチャーリーの発言に腹が立ったからとかならどうしよう。とってもしんどいのである)


おわり。


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