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ひとは二度生まれる

ひとは、日々何かしらのモヤモヤを抱えながら生きていると思う。

仕事、友達、恋人、家族。
日々何の悩みもなく生きている人間などいないと言っていいと思う。どれだけ高い能力を持っていようと、どれだけ生存能力が高かろうと、ひとが"心"を持っている限りそれ相応の悩みがあり、日々その悩みを解決する為に生きている。

そんな時ふと思う、

「自分はいったい何のために生きてるんだろう」

悩みを一つ解決してもまた違う悩みが発生し、解決しても解決しても心が晴れることはない。ただそれを誤魔化し取り繕うことだけうまくなりながら。

終わりなき葛藤。

答えなき問答。

"今、この世の中に自分が存在する意味は何だろう?生きる意味ってあるのかな。"

そんな"モヤモヤ"を抱えながら日々を過ごしている。
人が人と関わりを持たなければ生きていけない以上、そう言った悩みが尽きることはないのかもしれない。初めから答えのない疑問を抱えながら生きていくしかないのか。
こう言った考え方は自分を世界から切り離してしまう。肉体は仕事や生活上関わることはあっても、こんな悩みながら生きているのは自分だけなのではないか、この世で自分だけが不器用で、生きるのが下手くそで、みんな上手くやってるのに自分だけが躓いてばかりなのではないか、と…。

人はどこから来てどこへ行くのか。哲学でよく耳にする言葉だ。

母のお腹からこの世に生を受け、当たり前のように生きることを強いられる。
両親からいくら愛情を受けたところで結局大人になれば一人で生きていかなければならない。
そんな"状況"の中に置かれ、生きるために、死なないために働き、食事を摂り、睡眠をとる。

肉体は時間が過ぎれば歳を取り、やがて寿命が尽きるその瞬間まで生きる。

だが、心はどこへも行けない。自分という"殻"の中に存在し、周りから見たら在るのか無いのかさえ判然としない。

"ほんとはこうしたいけど、やっぱダメかな"

"やっぱり自分なんかじゃできないかな"

そう自分を否定する事でしかそのモヤモヤを解決する術がない。

だが。

逆に、

"こうしたいんだけどどうかな?"

"自分なりにやってみたんだけどどう?"

と「答えなき問答」に"応え"が返ってきたとしたら。

"いいね!やってみようよ"

"すごい!こんな方法思いつかなかった!"

そう、自分を認めてくれる誰かと巡り会うことができたなら。
欲しいのは、ずっと欲しかったのは問いに対する"答え"や"正解"などではなかったと気づくだろう。
他人と関わる事で何でそんな事を言うのか?なんでそんな事を言われなければならないのか?と思い悩むことはあるかも知れない。

でも、その"殻"から、自分を否定することでしか生きていく術がない過去の自分から、引き揚げてくれるのもまたひと、なのではないだろうか。

自分だけの殻に閉じこもると、そんな大切なことすら見失ってしまう。自分で自分を傷つけることでしか心を安定させることができなくなる。

だが、こんな自分の事を評価してくれて、"一緒に生きていこう"と手を差し伸べてくれるひとも必ずいるのだ。

"なら、このひとのためにちょっと頑張ってみようかな"

"こんな自分でも誰かの役に立てるなら"

ひとは、ひとと出逢い、共に生きていくことができる。自分の存在意義は分からない、でもこのひとの為なら頑張れる。生きていける。

ひとは心がある故、悩み苦しみ立ち止まってしまう。ひとは心がある故、悩み苦しむひとの気持ちが分かる。

足らないところ、至らないところ、自分にとって欠点だと思っていた部分が、実は他人を心の"殻"から掬い出し、救い出すことのできるチカラを持っている。

なぜ自分は生まれてきたのか?なぜ生きているのか?それは誰にも分からないかも知れない。分からないものは不安だし、答えを得て楽になりたいと思ってしまうのは人のサガなのかもしれない。

でも、だからこそひとは支え合うことができる。相手の気持ちを察して認め、理解することができる。

自分を受け止め、認め、理解してくれるひとのためなら頑張れる。
自分を否定すること、ではなく、誰かのために、誰かを支えてあげるために自分を認めてあげること。

"生きる"ことは誰かに強いられたものでも、"生きていく"意義は自分で見つけることができるのだから。

自分以外の誰かの為に力を振り絞ろうとした時、人の心は急に輝きだす。それが人生だ。

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