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心の律動オノマトペ

この、SNSが当たり前になった時代に生きてキミは何を思っているのだろう。

海へ行った、カラオケへ行った、ラーメン食べた。

「おお、元気そうやん!」

あなたは"それ"で終わりにしていないだろうか。確かに、SNSは人と人との距離を埋めてくれるものだ。いつでも繋がっている、この人の事はSNSしょっちゅう見てるから大体分かる、分かってる。

もう一度言う、本当にアナタはそう思っているのだろうか。

SNSは確かに便利だし、普通に生きていたら巡り会えない人とも出会うことが出来る。でも、人は忘れている。逆に言えばその人が文字に起こさない限り分からないということを。そもそも、相手の心のうちなんて覗けるはずがないということを。

それは、SNSがない時代から変わらないものだとは思わないだろうか。毎日顔を合わせていても、長年連れ添っても、何十年知り合いだとしても、「この人こんな一面あるんやな」と思うことなんて多々あることだ。考えてみれば分かることだが、ひとの気持ちとは全て言語化出来るものではない。自分自身のことでさえ、詳らかに全て書き出せる人なんていないはずだ。書ける、というのならその人は自分のことが全く見えていないのだろう。

SNSが登場したことによってひとの出会い方、出会える範囲は格段に変わった。だが、大事なのは出逢ってからどうしていくかなのに、知っている、わかっている、見たことある、読んだことある、それで全てを解った気になってしまう。

でも、人と人との付き合い方の本質はどんなに時代が変わっても変わらない。

会ったことがある、話したことがある。俺は、私はこの人のこんな一面を知っている。でもそれって相手がアナタに見せた"ほんの一部"に過ぎないのだ。アナタに見せたリアクションは全て心からのものだったか、と考えたらいや違うだろと皆んな言うと思う、でも忘れてしまう、日常を繰り返していくうちにひとはそれに"慣れてしまう"からだ。

笑っていたって心の底では泣いているかもしれない、そんな思考は、その言葉にならないオノマトペに触れずに、相手のリアクションに、目に見える表情や言葉、文字、写真に全てを求めていると、その人の本音を見失うことになる。
確かに、情報量は多い。だが、ただ情報量が多いだけだ。多いだけなのだ。多いだけでそれが何を表しているかはまた別な話なのに。ただ"与えられている"だけなのに、そのことに慣れてしまうとそれすら判らなくなってしまう。

言語化されていないその人のオノマトペ、それを思いやること、分からない、覗けないからこそ「自分がその立場だったら」と"考え続ける"ことでしか贖えないもの。
会ったことがある、話したことがある、その人の行動を知っている、相手が与えてくれたもの、それにしか心を注げなくなってしまったら、「大丈夫な振り」「何ともない振り」が上手い人に甘えてしまっていることにすら気付かない、気付けないことの寂しさに気づいて欲しい。

その人の発した言葉、書いた文章、載せた写真。どんなにおちゃらけた冗談だって真顔で打つことができる。

ひとは色んなものを抱えて生きている。でも、その全てを形にすることはできない。ChatGPTが発達すれば人の思考は衰えていくと言われている、が、私はSNSが登場してからすでにひとが気付かぬゆるやかなスピードで"ソレ"は始まっていたと思っている。

大事なのは知ってるか否かではないのだ。"分かろうとするか否か"なのだから。本当の人間関係とは、"真心"とは、「それ以外」に目を向けることなのだから。

アナタの全てを知ることは出来ない。アナタの全てを分かってあげることは出来ない。

だけど、アナタの表も裏も、全てを笑顔にする努力は出来るはずだから。

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