14 女の海溝 トネ・ミルンの青春 森本貞子 【11.開拓使仮学校女学校】

■津軽海峡を渡り、東京へ

明治五年(一八七ニ)10月、とねは『英学を学びとるために東京』へ旅立ちます。旅立ちの期待は次のように描かれます。『前夜はGASが深く、海から聞こえる汽笛の音は夜更けまで響きわたるのがことさら気になって、なかなか寝つけませんでしたが、夜明けに大森浜へ走りでたときには、海が明朗な姿を現わしていました。轟く波の音は私を鼓舞しているかのようです。汐首岬の彼方からさんさんと昇る太陽は後光のようにまぶしく、空には五色に彩られた雲が飛び、大森浜から見はるかす海原は澄んだ群青色に拡がっていて、このときほど、海が広大に輝いてみえたことはありませんでした。私は、朝陽に輝く海がみたくて、夜明け、この浜辺にやってきたのでした。(中略)北の海、この津軽海峡をはじめて私は渡るのだ、人生の船出ともいうべき出発ー私の胸ははち切れんばかりに高鳴っていました。』開拓使仮学校女学校開設の知らせはキャプテン・ブラキストンからもたらされました(正確にはブラキストンを訪れたケプロン夫妻から)。津軽海峡と本州を隔てる境界線<隔て>に着眼した人物から<隔て>を越えることを勧められるあたりにはなにか因縁めいたものを感じますが、それは、多分にこちらの勝手な深読みでしょう。

■いささか的はずれな授業

しかし、とねの期待は脆くも崩れ去ります。まず、生まれ育った街函館と東京との様々な違いに戸惑います。『増上寺の(中略)山門内の開拓使の門は芝居でみる大名屋敷そっくりで、雲竜を型どった模様の塀のなかに、仮学校女学校の宿舎は新築されていたのですが、これまた古めかしい日本式の障子、襖の間仕切りの建物で、函館で英領事館やブラキストン邸をみつけていた』とねには『時代が逆行していくように』映ります。当時は函館の方が東京と比べて、ある部分においては先進的なところがあったことによるものでしょうか。また、とねに「姓名」がないことで受ける『差別のまなざし』。この一件はとねに父へ懇願の手紙を書かせることになります『私たち願乗寺一家の”姓”を早く考えて下さるようにお願いします。”姓”のなかったのは、女生徒四十四名中、ただ独りでした。』何よりも『英語をきっちり学びとりたい』と期待していたにも関わらず『英語はまずABCから』『女学校生徒たちに対しては、裁縫と手芸、西洋絵の授業にむしろ力を入れて』いる『いささか的はずれの授業内容』にとねは失望します。

■札幌を首都と為す

とねの苦悩から少し離れて、女学校開設に至る過程の中で、今日「札幌が北海道の中心地」となるに至った経緯が紹介されています。傍流の話題ですが、少しだけ寄り道します。『明治三年五月九日、黒田清隆が開拓次官に起用』され『開拓十年計画』が定められる。『未開の北海道開発には、開拓に経験深いアメリカ人の指導を仰ぐのが最高の策』として、翌年黒田が渡米。当時の大統領グラントに謁見、開拓への適任者の推薦を依頼。結果、推薦されたのがホーレンス・ケプロン。明治四年八月、横浜に上陸。数名の同行者が行った北海道の実地調査の結果を踏まえ、ケプロンは「札幌を首都と為す」と結論。「地勢、その他を診断検討したが、他に至当の地がなければ、札幌は日本海と太平洋とを結ぶ通路、しかも石狩川の支流の豊平川の流域で、緯度から考えてみても温帯中の最も肥沃な農耕地であり、おそらく人口も富力も、やがて日増しに繁栄する土地である」との同行者ワーフィールドの意見にもとづくものということです。つまり、札幌はアメリカ人が見つけた場所だということです。この事実は私にはかなり新鮮な驚きでした。当時の世界情勢などから(今でもある意味同じだとは思いますが)ありえない空想だとは思うのですが<未開の北海道開発には、開拓に経験深いロシア人の指導を仰ぐのが最高の策>と明治政府が動いていたならば、今日の北海道はどのような姿になっていたのだろうかと考えてしまいます。それは、少なくとも寒冷地・豪雪地での住まい方や町づくりにおいてはアメリカ人よりロシア人の方がはるかに長けているのではないか、と考えるからです。

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