15 女の海溝 トネ・ミルンの青春 森本貞子 【12.ストライキ】

少し先の展開までふれてしまうと、この「12章ストライキ」以降「13章ライマンと広瀬常」「14森有礼の結婚」は「15章退学」へ連なる布石のような形で紹介されます(開拓使仮学校女学校にて起きた事件)。これら噴出した事件はときの明治政府の方針の揺らぎがその根っこにあります。揺らぎに反応するとねの目線は厳しく、かつ、勉学を身に着けたい想いと突きつけられる現実との狭間で、とねもまた揺れ動くことになります。

■校則反対登校拒否態勢

本章では『女学校が開校されて六ヶ月たった、明治六年四月になって、入校証書雛形が、はじめて提示された』その内容に抗議、登校拒否をとねが煽動したかのような扱いを受けることになります。入校証書に提示された内容でとねを始め大多数の生徒たちが納得できず『校則反対登校拒否態勢』に入ったのは『北海道開拓への義務を負わされることと、北海道在籍人との婚姻を強制されること』また『病気退学のときの、償金支払いが多額にのぼること』このふたつの項目です。『こんな規則が始めから定められていたら、この女学校に入学なぞしなかった』というのが生徒たちの言い分ですが『開拓使やお上の事情が変わるのだから仕方ありません。皇国の女生徒たるもの、規則に従っていればそれで良いのです!』『校則は校則です。きちんと登校するように!』と封じられます。実情は『明治政府及び開拓使の政策がめまぐるしく変化するのにともなって、女学校の教育方針もそれに巻き込まれ』ただけのことです。一方、とねは『勉学への執着』は強いものの『卒業後の開拓使への義務やその後の身の処し方への懐疑など、胸中にはあれこれ迷いが去来』します。英学についても『函館で覚えたような会話中心のものではなく、読み書きに重点を置く漢文調訳文の英語を教える程度』であり、とねの『期待には遠いもの』という状態。まさに進むも地獄、退くも地獄。結果としては『明治六年も終わろうとするころ』女生徒の中で最後に、とねは校則承認に判を押すことになります。

■北海道の設計図は誰が書いたのか?

ところで、なぜ『明治政府及び開拓使の政策がめまぐるしく変化』したのでしょうか。このあたりの経緯が記された箇所をひとまず抜き書きしておきたいと思います。『北蝦夷地といわれた樺太は、幕府時代には国境が確定しておらず、日露両国雑居のまま明治時代に入ったのですが、明治二年(一八六九)四月から、政府は蝦夷地開拓を急務とし、“樺太がロシヤのものとなれば、その禍はたちまち松前、函館に及ぶべし”として対策を考究』『この年、ロシヤが樺太南部に千二百の兵を派遣してきたのをイギリス公使パークスが察知し、政府に忠告したのですが、岩倉大納言はじめ政府はなすすべを知らず、パークスに教えを請うありさま(中略)北海道までロシヤの手に帰したら、北太平洋のイギリス勢力が、ロシヤにおびやかされる、と案じた』パークスから『「これでは、日本は樺太を維持できるはずがない。むしろ、早く放棄して、全力を北海道にそそぎ、ここだけは日本の手に確保するがよかろう」と忠告』(中略)『日本側は北海道開拓で手いっぱい、こと黒田は、その開拓さえどこから手をつけてよいか皆目分からなかった』とも言われることも。北海道の開発と警護が緊急事であると認識しながら「十年ののち、全道の富有、内地と陸を比するに致るべし、これ遠大の業ならずや」と『抽象論あるのみ』。開拓事業を推進させる方針は『アメリカから招いたケプロンの提案』に基づき決定されます。こういった経緯が真実であるならば<北海道の設計図>は米英両国が作り、日本人が実行したというような見方さえしてしまいたくなります。

■函館=北海道ではない

そして、現地の実態・実情にそぐわない開拓使政策について、とねは痛烈に批判を向けます。まず『内地よりもはるかに早く西洋文明が移入した近代都市でした。幕末から明治維新にかけてのこの港は、暗黒の北海道にあってここだけが曙光がさしていたような港』と函館を先進地域であるとする一方で『北海道奥地はまだまだ人跡未踏の地がほとんど、原木のおい茂る密林地帯、熊や狐、狼が生息する原野に覆われ、わずかに海岸近くの小樽、室蘭、松前、江差などが“点”として存在するだけ(中略)道路も、明治三年から四、五年にかけて、東本願寺の指揮のもとに有珠から札幌への一〇〇キロ道路が開削されたばかり。ようやく明治五年から、開拓使は札幌本道開削に手を付けはじめ、函館から七重、峠下をへて森に達し、それから室蘭、苫小牧、千歳、札幌に及ぶ二〇〇キロに近い馬車道が、この年、明治六年にようやく通じようとしている、という心細い現状』と解説。このような原野・荒野開拓事業に『鍬も鋤も握ったことのない』とねはまるで自信がないと嘆き『北海道なら、すべて同様だと考えている開拓使役人たちは函館の実態を知らない』と指摘します。なによりも、とねは『家族と離れてはるばる勉学の途にのぼったのも、文明開化の先端をいく英学を学びとりたいためで、北海道開拓事業の礎となろうなどとは』考えてもいません。とねが東京で勉学に励むことを志した実情、そして、函館=北海道ではないという実態、これらと政府の政策方針はことごとく噛み合いません。このようなすれ違いは昔も今も変わらないのでしょうか。

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