10 女の海溝 トネ・ミルンの青春 森本貞子 【7.キャプテン・ブラキストン】
ようやく出てきました「ブラキストン」。元々「ブラキストン・ライン」が本稿のテーマであったのですが、再読・拾い読みをしながらの道中で随分と遠回りになっています。ということで、第7章にしてようやく「ブラキストン」を掲げた件へと入っていきます。ただこの章では私が本稿のテーマに仕込みたい「ブラキストン」というよりも「とね」に様々な影響を及ぼした意味合いのブラキストンとその洋妾“三浦その”(おその)について、ひとまずのメモしておこうと思います。
■トーマス・ライト・ブラキストン
ブラキストンは元軍人の英国人。中国に派遣されていた際に避暑で訪れた箱舘に魅了され、軍籍を離れた後の文久三年(一八六三)に『西太平洋商会の代表者として』箱舘へ来航します。来航後、箱舘に製材所を設け『木挽さん』と町の人からも親しまれていたそうです。
■おそのさん
一方の『おそのは津軽で生まれ、もの心ついたときすでに両親は亡くし、養女に出されたとか。のちに、海峡を越え箱舘に渡ってきた』という出自。『夫婦で箱舘に渡ってきたキャプテン・ブラキストンと、エミリー・サットン夫人が、梅川楼門前でみかけた丸顔の女を、楼主にかけあい女中として引きとったらしい』ととねは述懐しますが『それとても、さだかならぬ噂』ということです。その後、サットン夫人は英国へ突如帰国してしまうのですが『サットン夫人の帰国ののちほどなく、キャプテン・ブラキストンとおそのさんとは、いつか深い間柄になったようだとの噂が流れるように』なったと語られます。
■ブラキストンとおそのととね
とねは、ブラキストンについて、三歳のころに抱き上げられ「メンコイ、ネ、この娘(ルビ:こ)」と微笑みかけられたことやブラキストン邸で食べさせてもらったというチョコレート・ボンボンの思い出と共に『いつも優しいキャプテン』として記憶しています。どこかもうひとりの(それも異国の)父親のように感じていたのかもしれません。なによりもブラキストンの紹介で後に人生を共に歩むことになるジョン・ミルンと結ばれることになることからもとねにとってはある意味最重要人物のひとりとも言えます。またおそのについては『“姉”に似た想いを寄せていたかもしれません』と綴られます。『根なし草家族』ゆえ両親以外の年長者(例えば祖父祖母、また、とねには兄がいるのみで姉がいない)と接する機会が少ないからこそ、親しく付き合うにつれて、このような感情(疑似的な家族関係)を抱くこともあったのかもしれません。
■とねの体を駆けぬけた熱風
こういった二人について『ブラキストン邸での、キャプテンとおそのさんの、あの感動的なシーンだけは、幼かった私の胸に強烈な印象を焼き付けずにはおかなかった』としてとねが告白をします。ある日ブラキストンの帰りを待つおそのと帰りを待つ間に遊んでいたとね。かくれ鬼でとねが隠れているその間にブラキストンが帰宅します。濃い霧に帰港できないのではないかとブラキストンを案じるおそのを察するように、ブラキストンは沖合に停泊した船からボートで漕ぎつけたのです。その様子が以下です。『「もう、いいよぉ!」おそのさんは、まだ上がってきません。ふしぎに耳を澄ますと、誰かが邸内に入ってくる気配です。ドアの開く音、おそのさんの足音、そのまままた静けさが……。私は、おそるおそるカーテンから出ると室をぬけて、吹きぬけの階段の上の手すりにもたれて下をのぞきました。玄関のポーチにには、いま帰ったばかりのキャプテンの腕の中に、抱擁されるおそのさんの姿が見えました。二人の、お互いのいとしさと恋しさをいささかも隠さぬ強い抱擁でした。夕暮れの玄関には、明るい灯がともされていただけに、それは、芝居のシーンのように美しく、私の目に映ったのです。幼い私者なぜか分からぬままに、熱風のような熱いものが体を駆けぬけ、目まいにも似た感動が胸にこみあげてくるのでした。このときの心の熱さを、私はのちのちまで、おりにふれていくたび蘇らせたことでしょう。』この二人の姿が、後年、とねとミルンに引き継がれていくことを暗示させるようなくだりです。そして、なによりも『津軽海峡における動物相上の境界線』を唱えたブラキストンが、函館に生まれ落ちたとねと英国人であるジョン・ミルンを引き合わせることに一役買うことになる不思議さを感じずにはいられません。