「世界の名曲」を読む_1_シューマン

仕事部屋の書棚にひっそりと収まっていた「世界の名曲」(世界文化社刊)。丁寧な本づくりに(装丁、構成、組版)に頭が下がることもさることながら、各テーマ(作曲家)ごとに端的にまとめられた解説は眠らせておくに忍びない労作ばかり。ということで本稿にて、抜き書き・移植をしてしおこうと考えた次第、まず第1回目はシューマン。

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□シューベルトの良き理解者

『海辺のカフカ(村上春樹)』の中に次のような一節がある。で、ずっと気になっていた。同乗する車の中で流された音楽を「シューベルト?』と言い当ててしまう『15歳の僕』とそのシューベルトのピアノ・ソナタを『天国的に冗長』と評したシューマンのことが。

「音楽を聴いても構わないかな?」と大島さんは言う。かまわない、と、僕は言う。彼はCDプレイヤーのプレイ・ボタンを押す。クラシックのピアノ音楽が始まる。僕はしばらくその音楽に耳を澄ませ、だいたいの見当をつける。ベートーヴェンでもないし、シューマンでもない。時代的に言ってその中間あたりだ。「シューベルト?」と僕は尋ねる。「そう」と彼は言う。そして両手をハンドルの、時計で言えば10時10分台の位置に置いたまま、僕の顔をちらりと見る。「シューベルトの音楽は好き?」とくに好きなわけじゃない、と僕は言う。大島さんはうなずく。「僕は運転しているときには、よくシューベルトのピアノ・ソナタを大きな音で聴くんだ。どうしてだと思う?」「わからない」と僕は言う。「フランツ・シューベルトのピアノ・ソナタを完璧に演奏することは、世界でいちばんむずかしい作業のひとつだからさ。とくにこのニ長調のソナタはそうだ。とびっきりの難物なんだ。この作品のひとつかふたつの楽章だけを独立してとりあげれば、それをある程度完璧に弾けるピアニストはいる。しかし四つの楽章をならべ、統一性ということを念頭に置いて聴いてみると、僕の知るかぎり、満足のいく演奏はひとつとしてない。これまでに様々な名ピアニストがこの曲に挑んだけれど、そのどれもが目に見える欠陥を持っている。これならという演奏はいまだにない。どうしてだと思う?」「わからない」と僕は言う。「曲そのものが不完全たがらだ。ロベルト・シューマンはシューベルトのピアノ音楽の良き理解者だったけど、それでもこの曲を『天国的に冗長』と評した

□ドイツ・リートの継承者

『シューベルトが開花させたドイツ・リートの継承者といわれるロバート・シューマンは、ロマン派の最も典型的な音楽家であった。(中略)彼は「歌の年」といわれる1840年に、集中的に歌曲を書いている。(中略)この一年間で実に150曲近い歌曲を作っているのである。そのいずれもが、愛の歓び、失恋のいたみ、過ぎ去った青春へのはかない郷愁など、これまでの音楽家には見られなかった「感情の微細画」を私たちに見せてくれるのである』

□分裂の中の美しさ

『シューマンの歌曲は、音楽的な完成度は必ずしも高くないし、シューベルトやブラームスのそれに比べるとき、オーソドックスな意味での書法の不備も目立っている。いわば、疾走する魂の躍動に音楽が追いつけないでいるような、完結性の乏しい曲も少なくない。しかし逆に、彼のリートの独特の美しさはまさにその分裂の中にあるともいえる(中略)感情のひだまでも微細に映し出すほど雄弁』ここまでの引用元は『歌曲の歴史』高崎保男

□一種目集中主義

『シューマンの創作のひとつの特徴は一時期一種目に集中することにあるのだが、これはこのあと*も続いて1841年には、交響曲二つのほかピアノ協奏曲の第1楽章など管弦楽曲を書き、翌年は管弦四重奏曲やピアノ四重奏曲・五重奏曲など室内楽をまとめて書いている。あとはオラトリオ、オペラ、ミサ曲など、年を追うごとにあらゆる方向に手を拡げ、同時にそれまでの種目もくりかえしている。ところでシューマンは1842年に友人への手紙で、「私は今まで書いたものー歌曲について言っているのですがー以上のものが作れるかどうかわかりません」といっている。これは歌曲への自身を示したものだろうが、反面、予言的というか、象徴的な言葉とも読める。というのは(中略)歌曲以後の作品は、例外はあるけど、概して精彩がない。交響曲にしても楽想は豊かだし、形式・構成上の工夫に見るべきものはあるのだが、全体的に平板・並列的で、ダイナミックな盛り上がりの感銘がうすく、時にはやや退屈でさえある。』(*「歌の年」といわれた1840年)

なかなか、手厳しい指摘ですね・・・。
「どうしてこんなことになったのか」
筆者は続けます。

『ひとつはシューマンが音楽の古典的な価値に惹かれてきたということがあろう。それまでのような心情的・衝動的・個人的な、そして音楽外のものを反映してきたロマンティックなものよりも、もっぱら音そのものの理論に基づき、形式も整った作品の普遍性とでもいったものに魅かれたのだろう。シューマンは古典の大家たちのほか、同年配では古典的な仕上がりのうまいメンデルスゾーンをひどく尊敬していて、それは芸術上にとどまらず、個人的なものにまでなっている。また外面的な理由としてはピアノや歌曲もいいが、もっと大規模な音楽を書かないと世間から大家として認められないということもあったろう。それに、シューベルトの交響曲を発見したシューマンには、自分もひとつ、という意欲もあった。』

初期衝動の時期を終えて、
より自らを洗練させていくことを目指した、
ということでしょうか。

□根っからのロマンティスト

『ところが、やはりシューマンは根っからのロマンティストで、音楽上の文法というか、筋道に従って書くと作品は精気を失い、形式は手カセ足カセになった。加えてシューマンは若いころ、楽理の勉強をきらい怠った、歌曲や手慣れたピアノでは規則より霊感がモノをいったけど、ピアノ以外の楽器で、しかも大きいものを書く段になって、勉強不足は容赦なかったということだろう。後半生でも、ピアノ曲は、ないしはピアノを含んだ曲が概してよく、しかもそれがロマンティックであるのは偶然ではなかろう』

□ダビット同盟

シューマンの生涯を語る上で
欠かすことができないというのが、
批評の仕事。
幼時からの文学趣味に端を発するという
その活動は「音楽新報」上で
展開されたという。

『「音楽新報」で変わっているのは、シューマンは「ダビット同盟」という架空の結社を作り、同人・寄稿者たちはそのメンバーというふれこみで独特の筆名で書いている。シューマン自身は主として、フロレスタン、オイゼビウス、そしてラロ先生という名で登場する。それぞれシューマンの中にある衝動的・行動的側面、瞑想的・内省的半面、そして両者の調停役という含みである。この方法だと、いろいろの立場から問題を扱うことができるという利点があったらしい。』

本題からそれますが、ここで紹介されている方法がとても興味深いです。ロマンティストである自身本来の気質をも冷静に、客観的に俯瞰していたのかもしれない「もうひとりのシューマン」がいたことを想像させる、この一人三役の話。もし、そうであるならば、自身の作品を「もうひとりのショーマン」がどのように評価、批評していたのだろうか、と想いを巡らせてしまいます。

□本当の詩人は、本当の批評家でもある

『シューマンの批評については、彼独特の文体、その狙いとするところ、ひいては資料的な価値など、語るべきことは少なくないけど、要するに、これによって音楽のロマン主義運動がノロシをあげ、活気づき、そして確立したということが、とりわけ大事だろう。つまり、ショパン、メンデルスゾーン、ベルリオーズ、リストといった音楽家について、おのおのの特徴・意義を正確につかんで批評し、これを賞揚したのである。それにしても、同時代の芸術と芸術家について歴史的に正しい判断を下すことがどんなにむつかしいかを考えれば、シューマンがいかに鋭い批評眼をもっていたかが分かる、本当の詩人は、また、本当の批評家であるという言葉の好例たるを失わない。(中略)メンデルスゾーンを少しほめすぎたにしても、総じて大物たちを誤りなく判定しているのだから、それにもまして、自身作曲家であるシューマンが、これほどまでに、自分を超えた使命のため、無私な態度で競争相手たちを評価したことはやはり感心のほかはない。人間としての誠実さ、モラルの高さという点でも、シューマンは一流の人間だったと思う。』

□火付け役が火消し役に

やがてロマン主義は勝利を得たとの判断で、
批評の筆を置いたシューマンであるが、
ほどなくして、ロマン主義の行方に
懸念をいだきはじめる。

『ある友人への手紙ででは、ワーグナーの音楽が感動的で、官能に不思議な魔力を及ぼすものであることは認めながらも、形式がなく、音楽は無意味で、ああいうものがドイツ・オペラの傑作の仲間入りをするなら、芸術の頽廃のしるしだというようなことをいっている(中略)、つまりシューマンは初めはロマン主義を呼び出しながら、あとでその行き過ぎに我慢ができなくなった、前衛だったのが後衛にまわった、火をつけて歩いていたのが火消し役にまわったが、もう間に合わない。』(中略)『ピアノと歌曲で、あれほど自由でロマンティックだったシューマンは、古典の整然とした形式と、格調ある表現を求めてさまよい、しかし結局、うまくいかなかった。批評家として先が見え過ぎた人間の不幸といった感もないではない。』

□「新しい道」

そんな中、シューマンは
みずからの後継たる才能を
若きブラームスに見出し
「新しい道」を書き、世に送り出す。

ブラームスは鬱勃としたロマン的心情と堅固な古典形式とを一致させ、ショーマンが果たせなかった夢を実現し、ワーグナー一派と戦ったのはだれも知る通りである。シューマン最初の批評は、「音楽新報」発刊前の1831年、別の雑誌に寄せたもので、それは「諸君、帽子をとりたまえ、天才だ」という例の有名な句を含む、ショパン初期の作品に関するものであり、シューマン最後の文章はブラームスの、やはり初期の作品に触れて書かれたもので、ここでもシューマンの批評眼の確かさは証明されている。』

□批評家シューマン、創作家シューマン

『他人を判定して、これほど間違うことの少なかった批評家シューマンだが、創作家シューマンの仕事のうち、強く後世に残るのはどの部分かということについて、果たしてどのくらいの見通しを持っていたのだろうか?』(ここまでの引用元『シューマンの愛と死』中河原理)

批評家シューマンが自らの仕事のうち、
強く後世に残る部分は
どの部分と見通していたかのか?
その答えもさることながら、
この『世界の名曲』を読んだことで、
シューマンの曲が、これから先、
自分の中で、どんな風に鳴り響くのか?
そして、冒頭に引用した、
シューベルトのピアノ・ソナタへの論評を
自分なりにどのように消化できるのか?
そのあたりを考えてみたいと思いました。

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