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01 女の海溝 トネ・ミルンの青春 森本貞子

■ブラキストンラインについての考察

野球×北海道というお題を「ブラキストンライン」という視点から考察してようと考えています。で、まずは手始めに「ブラキストンライン」に関しての読書。ひとまずは抜き書きを進めて全編をひと眺めした後に、なんらか総括めいたものが浮かび上がってくれば良いなと考えています。*ヘッダー画像は「函館山」(引用元:函館観光画像ライブラリー)

■英国人お雇い教師ジョン・ミルン教授の夫人、トネ

『青森港を出帆した連絡船は陸奥湾をでて津軽海峡にさしかかるころ、濃い霧になった。(中略)この濃い銀灰色のGASは、あの人が遥か東京をめざして、函館から船出したその晴れの日にも、いまと変わることなく、津軽海峡にたち籠めていたのであろうか。明治のはじめ、いまから百年あまり昔の、ご一新のどよめきが、まだくすぶっていたころのことである。』『明治五年(1872年)北海道開拓使は、東京芝増上寺境内に開拓使仮学校を設立し、女学校も併設した。この女学校に入学したいばかりに、まだ鉄道も通わぬ北の果ての港街、函館から家族と別れて、津軽の海に船出したのは、彼女がわずか満十一歳の年だったという。東京の上野から青森へ東北本線が開通したのは、明治二十四年のことである。見知らぬ東京へ、家族と離れて勉学に旅立ったのは、少女だった彼女の、どんな事情のもとの、どのような決意の末でのあったのだろうか。』『“あの人”とは、明治十三年世界で初めて地震学会を創設し“地震学の父”といわれる、英国人お雇い教師ジョン・ミルン教授の夫人、トネのことである。』『ジョン・ミルン教授の夫人が、函館で生まれ、函館で育った函館の女(*ルビで「ひと」)だったとは―。しかも僕(*著者のご主人の森本良平)の家に近い願乗寺の、幕末だったことの住職だった人の娘だという』

■著者ご主人の疑問

『西欧崇拝絶頂期の外人お雇い教師だ、東京にいくらでも、美人で聡明な女性がいただろうに、なぜ北の果ての、函館の女なんぞと結ばれることになったのだろう。また、たとえ結ばれたとしても、蔭の女としておくのが、むしろ当然だった時代だ。正式に結婚までして、しかも、イギリス本国まで連れて帰っている。たしかに当時としては異例のこと』『“地震学の父”といわれるミルン教授の夫人が、函館で生まれ育った女(*ルビで「ひと」)と知った夫は、中学までを過ごした少年時代の想い出のなかの函館と、ミルン教授の高度な知的イメージが重なり合わないのだろう、しきりに首をかしげ、「どうにも理解できぬ」といった顔つきであった。夫の生家は雑穀肥料問屋で、函館の旧桟橋近くにあった。夫にとっての函館とは、やん衆たち、出稼ぎ労務者が大勢に集い、出面とり(日雇い労務者)の女労働者と所かまわず大声でわめき散らし、ときには、聞くに耐えぬ卑猥な笑声をあげ、馬糞に汚れた道路をすさまじく馬車が行き交う、騒々しく野卑な街だ。およそ地震学会の創始者といわれるミルン教授とは結びつかない。「下賤な港街だ」というのが、夫の想いのなかの函館なのであった。』

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