18 女の海溝 トネ・ミルンの青春 森本貞子 【15.退学】

■津軽海峡に降る雨

『津軽海峡とおぼしきあたりから降り出した雨は、船の横腹に横なぐりに振りつづけ、ときおり風を巻き込んではざああっと音をたてて船窓をたたき、つのる風に波のうねりは船よりも高く、船は右に左にかしぎながら、よたよたと苦しげに進んでいきます。私たち女生徒もまた、全員船室に臥せって嵐の静まるのをただじっと耐えています。横になっておののきつつ耐えること数時間、ようやく風が遠のき雨も小降りになったと、ほっと息をついたものの、細かい雨あしはなお消えず、暗い空からあまたの長い銀糸を垂れたように、いつまでも津軽の海にそそぎ続けています。視界をまったく雨に閉ざされた船は、ボウボウと汽笛を鳴らしつづけ、それはまるで船が悲鳴をあげているかのようでした。』

■眼前にして手の届かぬ故里・函館

『ようやく函館港も近いのか、船は船足をゆるめ、なお汽笛の音を吐き続けながら、防波堤をゆっくり廻って、函館港に停泊しました。夕暮れにせまる港に濃い灰色の雨はそそぎ、懐かしい函館山は雨雲に覆われたままで、ふんだんに坂を抱く山麓の美しい街並みも、緑に煙る近在の山々も、なにひとつ故里らしき姿は望めぬまま、港も街もすべて雨と夜の暗闇に沈んでいるようでした。故里を前にしながら、その姿を見定められぬことは、ひとしおのもの淋しさでした。』雨は夜中にあがったのか、一夜明けた港は、嘘のように晴れ上がり『船の西方にそびえる函館山の山麓には緑の木々が輝き、山裾に点在する白い教会や、膚色や青色の西洋館は異国情緒をそそらずにはいないのです。街の北方に連なる山脈も、昨日の雨のおかげで緑が燃えたつよう。駒ヶ岳さえうす紅色の三角の頭をのぞかせているではありませんか。姿をみせてくれた生まれ故郷の山も街も、見えれば見えたで、また手の届かぬもどかしさが、私のいらだちをかきたてるのです。退学金さえ払えたら……。』と。

■小樽、銭函、篠路、そして札幌へ

とねらを乗せた船は、小樽を目指してさらに北上をつづけます。『松前沖を過ぎ、江差沖にかかること、土地の人がしたきと呼ぶ強風が吹きだし、船はたちまち風に押し流され、あれよあれよと思うまに岸辺近くに吹きよせられ、危うく岩礁に乗りあげるかと息をのむ一瞬も。船は風にあらがい、流れに抗しながら、あえぎあえぎ懸命に北を』目指します。『やっとのことで小樽に入港。港は北の高島岬、東の平磯岬に囲まれた良港で、この街もまた坂が多く、大小あまたの船が港を埋めていました。幕末から鯡漁の中心地であり、北海道の首都、札幌に近い小樽港でしたが、私たちは女生徒は、徒歩の距離のもっとも短い銭函から上陸と定められていたので、小樽で大型船と別れねばなりませんでした。一夜、小樽港に停泊ののち、五十集通いの漁船のようなお粗末な船、二艘に分乗した女生徒たちは、ちょっと荒れると転覆しそうな小船を危ぶみながら、やっと銭函に上陸』『銭函から篠路を経て札幌への徒歩の道』にて、八月の夏の陽に容赦なく照りつけられながら、夕暮れの札幌に到着。明治八年八月十日とのことです。

■とねが見た「札幌」

『そのころの札幌は、開港都市函館で育った私の目には原野に無理に出現させた西洋模型の街と映りました。いかにも閑散としていて、その淋しさは茫然とした原野の雰囲気そのものでした。アメリカの議事堂をまねた北海道道庁や、開拓使の洋風ホテルも建造されていましたし、札幌農学校女学校も、新築あらたな南京下見の外壁に上下に開く窓、左右に開く戸をとりつけた洋風建物には違いありませんでしたが“西洋”と呼び得るものはポツンポツンと建ったそれらの建物のみ(中略)創成川の東のほとりには、ビール工場などの官営工場や、病院、官舎も新築なっていましたが、碁盤の目のような道路区画は、なんとなく日本の古都じみていて、活力にみちた賑わいに湧く街の雰囲気なぞどこにもみあたらず函館で育った私の札幌の印象は、ただだだっ広いだけのもの淋しい街です。光る海のみえる港町函館が、しきりに思い出されてなりませんでした』函館で日常生活にとけこむように西洋にふれていたとねにとって『西洋洋裁(ミシン縫い)、大型農機具の操作と養蚕を基本とした教育を通じて触れる札幌での“西洋”は泥くさく』感じられます。『明治八年(一八七五)の札幌の人口は、わずか二千七百人、戸数一千戸。私が開拓使仮学校女学校へと上京した明治五年でさえ、函館の人口はすでに二万四千五百人、戸数六千六百余戸。この相違が、私を時代が逆行していくような暗い想いにかりたてたのです』

■退学

やがて、とねは体調に異変をきたし、授業さえ満足に受けることができない状態に。そんなとねは『がまんのきかない不心得者は「皇国の前途に役立たぬ」』ときめつけられ『退学を命ずるほかはない』と結論されます。そして、このときの退学の理由とされた「脳の病」が後々、とねを苦しめていくことになります。

■帰郷

とねが『退学してからわずか八か月ののちの明治九年五月(札幌女学校は)閉校と決定』この結果、とねを悩ませ続けた退学金(いずれ支払うようにとの通達を受けていた)も『支払う必要がなく』なります。『一応教養のあり女の具体的な活躍の場がないことに、ようやく気付いたのが閉校の理由だといわれています。』こうして『開拓使仮学校女学校は、開校当初とは目的と方針もまったく変わってしまったまま、短い生涯を閉じ』ることになります。被害者のひとりとも云えるとねは嘆きます。『この方針変更がもとで「脳の病」と診断された私こそ災難でした。(中略)もう少し早く女学校が閉鎖されていたなら、これほど悩む必要もなかった』のに、と。女学校閉校の一件は、政府の迷走ぶりを象徴するかのような出来事に思えます。そして迷走に翻弄されて疲弊するのは一個人。こういった図式も~残念ながら~今に至るまで、何ら変わることはありません。

■失われなかった勉学への意欲

『東京でも札幌でも英学への夢は結ばれることなく、挫折のうちの帰郷』となったとねですが、心身ともに活力を取り戻すと『勉学への意欲は全く失われてしまったわけでは』なく『英語を学びたい意欲を捨てきることができない自分に気が』つきます。そうして『かつて夢であった英語詞への道ははるか遠く、もう果たせそうにないとしても、子供たち相手に英語の私塾くらいは開けるでのはないか』と考えはじめます。



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