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PLAYBACK1955_北大-北海学園大

全日本大学野球選手権大会の出場枠が北海道に単独で与えられたのが1955年(昭和30年)。初代表枠を勝ち取ったのは北海学園大学。初優勝にして初の北海道代表となった。決勝までの戦績は以下の通り。

1回戦:学園大11-1札教大
2回戦:学園大  8-7室工大
3回戦:学園大  7-3旭教大

■互いに初の決勝進出、神宮行きをかけた一戦

決勝の相手は北大。互いに初の決勝進出。対戦自体も二度目の対戦であった(最初の対戦は1952年秋、北大が5-3で学園大に勝利)。また、資料を読み解くと、準決勝の2試合と決勝戦は1日で消化していたようで、午前中に準決勝、午後に決勝戦を行っていた模様。『10日(引用者注:7月10日)午前中の準決勝で北大は10-0で道学芸大函館分校を下して、午後の決勝へ進出した。独立地区としての初めての決勝は、北大-北海学園大の対決となった。両校は、それから長く宿敵同士の歴史を刻むことになる(北海道大学野球部100年史、P114)』

学園大 400 000 000 001 5
北 大 102 001 000 000 4

■10連覇と10連敗の幕開け

『北海学園大側は初めての北海道制覇で、選手も応援団も感激の涙にひたった。そして、この後(中略)1964年の13回大会まで、10年連続で北海道代表として神宮球場へ出場することになる。(中略)1995年から北大野球部OB会長となった佐藤譲治は、初めての決勝対決で敗れた1955年の大会を顧みて「延長12回に力つきたのだが、もし、あのとき勝っていたならば、その後の流れは変わっていただろう、と当時のチームメイトと時折、話し合うのだ」と、なお消えない思いをもらした』と綴られている(北海道大学野球部100年史、P116)。「なお消えない思いをもらす」というのも試合展開をたどると大いに頷ける。北大は初回に4点を失うも、1回、3回と小刻みに追いかけて、6回押し出しの死球で同点に追いつく。延長突入後、10回に二死二、三塁の好機逃すも11回一死満塁。代打にバントの名手古山がスリーバントスクイズをこころみるが、三塁線に転がった打球は三塁ベース手前でボール1個分ファウルゾーンに切れて、三振。後続も断たれて、10回に続きサヨナラ機を失うと、12回勝ち越しを許して敗戦。二度のサヨナラ機会を作っていたことで明らかなように、延長以降の流れは北大に傾いていたのだから「もし、勝っていたならば」と述壊したくもなるのは当然であろう。この述壊には「これが学園10連敗の幕開けになるとは」(北大野球部HPより)という「その後の流れ」を決定づけてしまった一戦として記憶されているからであろうと思う。

■死中に活を求めての勝利

【北海道大学野球部100年史】からの引用を続けます。『この試合、実は北海学園大も“死中に活を求めて”勝利したことが後に明らかにされた。エースの鶴谷一司が肩を痛めていたのだ。当時2年生の彼は長身から投げ下ろす速球が武器の本格派だが、この大会の1回戦、2回戦に完投して迎えた決勝戦の朝、顔を洗おうとして、疲労で腕が上がらないことに気づいた。「キャッチボールをしてみると、ひじから肩にかけてピアノ線がピリーンといって切れるような痛みが走って、ボールがキャッチャーミットまでいかない…これでは登板できない。泣き出したいような気持を抑えていた」準決勝は三浦投手が登板し、7-3で道学芸大旭川分校を下して、いよいよ北大との対決となった。その決勝の投手起用をどうするか。筧智監督が決断した。「鶴谷、お前が投げるんだ。お前しかいないんだ」「でも先生…これじゃ」「少しサイドスローからアンダースローぎみに放ってみろ。オーバースローより痛みはないはずだ」急きょ、手取り足取りのコーチを受け、ぶっつけ本番で鶴谷はマウンドに上がった。「最も痛みのない腕の振り出しをし、ど真ん中には行かないように、内外角いっぱいとボールになるシュートを投げた。カーブも外角へ逃げるボールを放ってカーブもあるぞというカモフラージョ投法をやった。いかんせんスピードがないので、小気味よいほどの快音を残して打球が飛び交ったが、チームメイトはよく拾ってくれた」と、彼は30年後に刊行された『北海学園大学硬式野球部三十年の歩み』の中で述べている。北大側は、鶴谷のアンダースロー投法が故障のためとは考えなかった。速球を想定して打撃練習を重ねてきたからだ。それが、立ち上がりからスピードを殺したストレート、カーブばかり。「ひどく戸惑った私は『これははじめ軟投でかわしてくる作戦だから、いまに速いのが必ず来る。それまでじっくり待て』と指示した。だが、この策は完全に裏をかかれることになった…鶴谷投手が肩を痛めていた?という噂を聞いたのは後日の物語である」と今宮(引用者注:北大監督、今宮明男)は記している』

■最初のアンダースロー作戦とその後の余談

筧智監督、北海高校監督時代にも「アンダースロー作戦」を用いていた記録を確認。『試合は1回戦以来の登板となる北海・西村が好投(中略)肘の故障で下手投げに変え緩急を使った投球で札幌北打線をかわし、得点圏に走者を許すピンチにも動じず、守備も盛り立てて1点を守り切った』(北海野球部百年物語P366より引用)、1954年(昭和29年)夏の甲子園をかけた札幌北との決勝戦でのこと。なお、このときのメンバーに後にジャイアンツに入団する工藤正明がいた。学園大は、初優勝から2年後「急造アンダースロー」鶴谷の2点本塁打で三年連続の顔合わせとなった北大との決勝戦を制して、神宮へ駒を進めることになるのだが、三度目の神宮での対戦相手は立教大学。このときの立教にいたのがミスタープロ野球長嶋茂雄であり、1957年秋のドラフトで長嶋は工藤が「待つ」巨人に入団することになる。

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