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01 北の球人~元氣、本氣、一氣~佐藤茂富の高校野球 岡崎敏著

砂川北を春1回、夏2回、鵡川を春3回甲子園出場に導いた佐藤茂富元監督を綴った1冊。1997年4月が書き始めの起点であり「ひと昔」というより「もうずいぶん昔」の出来事なのかもしれないが「北海道×野球」というテーマからは外れていないし、むしろ、私には学ぶべきことが多いと考えて、精読を始めた次第。まずは抜き書きを中心にはじめてみます。


■鵡川に舞い降りたサムライ監督

『春夏合わせて3度、チームを甲子園に率いた砂川北高校を去って、一体育教師として鵡川高校に赴任したのは、1997年(平9)4月のことである。最後に甲子園で出場し、初勝利をマークした94年夏から』3年も経たずして、である。『定年まで4年』という『老将』が『(鵡川にくるにあたり)ひとつだけ気にいっていることがあった』という、それが『鵡川という字の中には、武士の「武」の文字が入っていること』だったという。『自称「武士」。そんな男が、渡り鳥のようにこの地に舞い降り、高校野球で数々の奇跡のドラマを作ることになる』本書はそのドラマを本人、教え子である選手、対戦相手の監督らの証言を交えて綴っていく。

■当時の鵡川高校野球部

88年に創部された鵡川高校の硬式野球部だが、10年間で11勝28敗。『年に1勝ちするのがやっとで、敗戦のうちの4分の3はコールド負け』という『惨憺たるもの』『甲子園とは無縁』の野球部だったという。

■コールド負けなんて何十年ぶり

『8月1日の監督就任から40日余りたった9月11日、茂富監督率いる鵡川は初の公式戦を苫小牧緑ヶ丘球場で迎える。相手は駒大苫小牧』のちに北海道初の全国制覇を成し遂げる高校であることは、ご存知の通りとは思うが、このときはまだ甲子園の常連にはなっていない、とはいえ『香田誉士史監督が野球部顧問3年目。室蘭地区の強豪の1つに数えられるようになってはいた』。試合は5回コールド負け。『「(4回の守備で)3者凡退なんてすごかった。やればなんぼでもできる」佐藤茂富監督も、決して怒ることはなく、達観した表情で、選手の頑張りをほめた。』というが『0-10の数字には、顔をゆがめてぽつりと(中略)「コールド負けなんて何十年ぶり。私にとっては屈辱だな」』とつぶやいたという。

■甲子園トロイカ体制の誕生

1998年(平成10)春『北海道の野球関係者を驚愕させる』事件が起きる。『旭川龍谷元監督の小池啓之、中標津監督だった山本武彦が、新たに鵡川に赴任』してきたのだ。『小池は83年夏、山本は90年夏、ともに監督してチームを甲子園に率いた経験があった。(中略)3人の甲子園監督が1公立高校で指導をするというのは、北海道では過去に例がなく、全国的にも異例のことだった。』『兵庫・市立尼崎出身で駒大に進んだ小池は、関西のち密な野球、東都の都会的な野球も熟知しつつ、熱血指導が持ち味。中京大出の山本は、中標津でシステマティックな科学トレーニングを導入し、投手を中心としたディフェンス重視の野球で活路を拓いてきた。そして、攻撃力が際立つ佐藤茂富野球。3人が3人とも確固とした自分の世界を持っていた(中略)大人の指導者』が惑星直列的に鵡川に揃ったのだ。もっとも『鵡川に3人のすごい指導者が集まった感想を聞かれた主将の小原正道は、後々まで関係者が大笑いする迷言を残している。「ありがたいような、迷惑なような・・・」』

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