20 女の海溝 トネ・ミルンの青春 森本貞子 【17.ジョン・ミルンとの再会】

ようやく「第一部」最終章までたどりつきました。今回も引用含め、少々長いですが、どうぞおつきあいください。

■とね、苦悩の遍歴を告白

翌年、とねとミルンは函館で再会を果たします。氷河調査を東北で行った後、ミルンが『函館に、ではなくてトネさんのところへ』戻ってきたのです。再会の挨拶とミルンの東北での仕事についての会話が交わされた後、とねは、かねてから、いつかはミルンに打ち明けなければならないと考えていた悩みを語り始めます。『なんでも話してしまいなさい、胸のしこりが晴れます。話す人がいる、ということは、人間にとって最高の幸せというものですよ。』とミルンに促されて。以下、毎度の長い引用になりますが、ここさえ読めば、とねの苦悩の遍歴を端的に辿ることができる重要な箇所になりますので、どうかおつきあいください。『「開拓使女学校を退学せねばならなかった理由を、知っておられますか」』と、とねは話を切り出します。『「じつは私“脳の病”ということで、精神が異常で、しかも“生涯治らぬ”との診断で退学させられたのです。ここに至るまでには、私の長い、長い苦悩があったのですが・・・・・・」一瞬、ミルンの顔に、愁いの色が走りました。「お聞きくださいませ。私の一生のお願いでございます。東京で入学した女学校では、士族の娘たちが殆どでまず私が姓のないことと口数が多いことで、蝦夷の野卑な女といやしめられました。入学当時寺の娘であったことも廃仏毀釈運動の直後であっただけに、しいたげられる材料のひとつでした。でも、それはひとときのこと、明確な意志を明確に伝えようとすると、女のくせに生意気だと先生方から叱られました。じつは学校に入学した翌年のこと、学則改正で、私たち女学生は“北海道在籍の人にあらざれば婚姻すまじきこと”と規律を改められ、しかも北海道開拓に従事する義務を課せられることになったのです。そのときも、私たちは規律改正反対のストライキを決行しました。納得がゆかず真先に反対しその首謀者だったことを、先生方からなじられてしまいました」(中略)私は開拓使女学校で病になるまでのすべてを、ミルンに打ち明けました。やがて、女学校の札幌行きが決まると、つぎつぎと大金を支払って退学者が続出し、大島姉妹、荒井常女をはじめ、大半の女学生は退学、貧しい私は退学したくとも叶えられず森有礼夫人常女などは退学金の支払いもなく退学してしまったこと。お金がなく、気のすすまないまま、考えもしなかった荒野の街・札幌に連れて行かれて、私には眠られぬ夜が続き、夢かうつつか分からぬほど神経が痛めつけられてしまったことを、生涯直らぬ脳の病との診断のもと、函館に帰されたことを。「そして日が経つにつれ、ことに私が開拓使の官吏との縁談を断ってからというもの“脳病娘とね”の噂は街中誰も知らぬ者がないほどになったのです。近頃では寺に集まる人でさえ、願乗寺とねは英語の塾を開く心づもりらしいが、あんな脳の病と診断された娘についてまともな勉強ができるはずがない、とさえ噂しているのを、私は聞かねばならぬようになってしまいました。ミルン先生、私は今でも、英語を学びとろうととの意欲は少しも失っておりません。が、このような街の人々の噂では、英語塾を開いても、はたして弟子がついてくれるかさえ危ぶまれるのです。どうしたらよいでしょうか。私はどうやってこれから生きて行ったら・・・・・・・」今まで悩みに悩んだ辛さが胸にせまり、私は不覚にも涙をあふれさせてしまいました。』

■一歩先を行き、時代を見ていたのはトネ

とねの話を受けミルンは『僕は、トネさんが脳の病だとは思わない。あなたは、内地の女たちよりほんの一歩さきに物ごとを感じてしまうのですよ。本能的に敏感なところもあるんじゃないかな、だからこそ苦しまねばならない。風当たりが強いわけですよ。僕からみると、トネさんのほうが、いや蝦夷地・函館の女たちのほうが、少し西欧の女に近いように思われる。』と答えます。続いて『それが良いか悪いかは、また別の問題だけれどもね』『蝦夷を全島文化果つるところ、くらいに考えている日本人がほとんどなことは確か』とも添えて。そしてミルン自身の境遇とも重ねあわせて、とねに共感を寄せます。『「僕が日本にはるばるやってきたのも、ひとつには、従属的な英国で軽蔑されつづけるよりも、東洋の未開の国日本で、今まで学びとった学問を最大限に生かして研究と教育に打ち込んでみたいとの希望があったからです。だから、トネさん、あなたの父上が東北地方から海を越えて渡ったという箱舘という、開拓精神と新たな西洋文化に影響された風土のなかで育てられたトネさんが、東京の女学校で旧い習慣のままの士族出の先生や娘たちから軽蔑されて悩んだことも充分理解できる。自らは希望せぬ未開の札幌で、全く思いもかけぬ農業教育を受けねばならなくなったとき、トネさんの神経が日々痛めつけられていったのも、僕には理解できるのです。そして、トネさんはその苦悩のなかで、疲れきって病になってしまった・・・(中略)トネさん、少しも案ずることはありませんよ、あなたは!むしろ、僕からみればトネさんのほうが時代をみていた。なぜなら開拓使の女学校は、トネさんが退学させられてからすぐに閉校になったそうじゃないですか。」』

■ほんとうの勉強

ミルンは続けます。『「たしかに人間は、成長過程で身についてしまった習慣を容易に変えることができないとしても、異質な文化や習慣、自然に接したとき、それらを客観的な経験にもとづいた目で、より広く、より立体的に把握していくならば、それらを総合した、より新鮮な見識、よりユニークな研究が生まれるはずではないか、と僕は思っています。具体的にいうなら、トネさんは自分自身が、どうして内地の女たちと考え方も習慣も違うのかを冷静につきつめて考えてみることです。(中略)トネさん、あなたの受けた屈辱と悲哀の経験をもとに、より広い視野で大きく物事をみること、それこそがトネさんのほんとうの勉強なのです。なにも机の上で外国語の英語ばかりを学ぶのが勉強ではない。外国語を学ぶ、言葉を学ぶということは、勉強の手段であって目的ではないはずです。」』そしてミルンは呼びかけます『「さあ、勇気を出して、トネさん、僕はトネさんを少しも病気だなんて思いませんよ」』と。『彼はときに両手を拡げ、ときには私の手をとり、熱をこめて話しつづけ、私をみる目は輝きを増し、話すにつれて自信にあふれ、理解に満ちた彼の言葉は、私の心を打たずにおきませんでした。私は、胸のなかによどんだ黒い雲が吹きとばされ、心のすみずみまでさわやかな風が吹きぬけるような気分になって、まるで魔法にでもかけられているような活力がみなぎっていくのを覚えました。室のなかはほの暗くなり、ようやく彼の顔の輪郭が分かるほどわずかな明るさを窓辺に残していました。私はいつか、彼のおおきな、腕のなかにいました。それは逞しく私を支え、私の悩みを深く強く受けとめてくれている“男”の腕でした。英知にあふれる彼の胸の暖かさを、私は私のすべてで感じていました。』

■立待岬

語らいの翌日、立待岬への散策の場面で<第一部 堀川とねの青春>は幕を閉じます。『深くたわんだ大森浜のペルシャン・ブルーの海原を縁取る小波が、白いフリルのようです。彼は遠い恵山の頂きをみつめながら、思いきったように、「トネさん、いま僕は地震と火山の研究に夢中です。トネさん、あなたも英語の勉強がしたいといっていましたね。二人でそんな生活をともにしましょう」それが、ミルンの私への求婚の言葉でした。私は夢の中の花園にいるような心持でした。さまざまな香りを放つ花がいっせいに咲き、涙が溢れ、私は感情の嵐のままに、彼の腕にゆだねられていく幸せに包まれていました。』

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