プレイバック レイモンド・チャンドラー 清水俊二訳

解説によれば「長さが一ばんみじか」い、遺作。腰を据えて読めば、一日あれば、充分に読むことができる。まぁ長さが何かの意味を持つ訳ではないけれど。遺作という予備情報があるからかもしれないけれど、他のマーロウものとは随分と違う印象を感じる。なんというか、本作でのマーロウは生身の男として揺れている。いつもは事実を淡々と受け入れ、我々読者の前に情景を記録していく装置としての役割に徹しているのみのマーロウが、幾つかの場面において心情を明かにするのだ。もちろん本作以外にもそのような場面はあるのだろうが、本作では特に際立っているように思う。全体の長さがコンパクトであること、書き出しが依頼者の男からの電話から始まること、依頼内容が尾行といういかにも探偵モノという内容であることなどから、「はじめてチャンドラー=マーロウもの」を読む人にお勧めかもしれないなどと考えながら、読み始めてみたけれど、プレイバックをはじめに読んでしまうと、少々マーロウに対するイメージの持ち方が独特になってしまうかもしれないなと考える。その理由が先に書いた、「揺れるマーロウ」の姿である。「なんとかして君の力になろう骨を折っている男さ。君が大へん困っているということがわかる経験と推理力を持ち合わせている男だ。そして、君に力を貸してもらわないで、君の力になろうとしているんだ」こんなことを口にするマーロウはこの時が初めてなのではないか。(未確認ですが)そして、本作が他の「マーロウもの」と際立って異なる点は、その終わり方にあると思う。一連の事件から解放されたものの「空虚な気持ち」で、部屋に寝転ぶマーロウであったが、リンダ・ローリングからの求婚とも思える電話での会話を経て「もう空虚ではなかった」とまで言い放つのである。自身の固い殻は破られたのだろうか。それはわからないが、アルコールでもいやせない「空虚な気持ち」や「誰からも何も求めないかたくなな気持ち」以外の何物かが、マーロウの中に入り込んだことは確かなようだ。マーロウが受け入れたというべきなのだろうか。これら、ほかの「マーロウもの」との明かな相違は、チャンドラーがマーロウを生身の人間としてとき放ったことから生まれているように思える。そこには、本作が遺作であるという筆者の意識が当然働いているのだろう。どこにもいる筈のなかった男であるマーロウが「生身の男」になるということは、フィクションとしての終焉を意味することにほかならないのだから。最後にふたつ。本作後、リンダ・ローリングと本当に結婚したのか?したとしてハーラン・ポッターとは折り合いがつくのだろうか?といらぬ心配をしてしまう。話の途中において、マーロウはいつものように「こづきまわされ、ひどいめにあってる」。この点については、いつものマーロウものと何ら変わりはない。(2013年2月)

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