16 女の海溝 トネ・ミルンの青春 森本貞子 【13.ライマンと広瀬常】

「13.ライマンと広瀬常」「14.森有礼の結婚」はとねの同級生である広瀬常を巡るいわゆるお雇い外国人であるライマン、そして森有礼との顛末が語られます。13章と14章、ふたつの章で一組のような形。本書と同著者(森本貞子)による別著書『秋霖譜-森有礼とその妻』には顛末がより詳細に描かれています。本稿では広瀬常を巡る一件を見つめるとねの視点を記憶しておくために、ポイントとなる箇所の抜き書きをしておきたいと思います。なお、英語を学ぶ意欲に燃えているとねが、女学校の方針変換等によって梯子を外されたような状況に、まるで承服できないことは、よくよく理解できる話なのですが、女学校の札幌移転計画を知るに至り、例えば東京出身の女学生同様、或いは、それ以上に過敏に札幌行きへ拒絶の反応を示すくだりはとても興味深いです。今日の北海道の中心地がひとまず札幌であることは疑いがないことですが、当時は先進都市の函館、未開の原野札幌という位置づけ、函館生まれのとねにとって札幌行きは到底受け入れることのできないことだったのでしょう。とねの反応が、函館・札幌の位置づけの当時と今日との違いを如実に教えてくれているようです。

■ライマン氏 広瀬常 娶たき願いにつき

明治7年正月に開催された開拓使主催の宴席でお雇い外国人であるライマンが広瀬常を見初めたのが事の発端です。その様子をとねは『宴たけなわになるにつれて、女生徒たちにはそれぞれ遠慮のないまなざしが向けられるようになり、なかでもライマン先生の青い瞳が、広瀬常のほの白い横顔を見つめているのを、私は見逃しませんでした。私は、幼いときから函館港の、男女間の奔放で自由な雰囲気の暮らしのなかで育ったせいか、男女のただならぬ気配を敏感に感じとってしまうのです』とねは語ります。とねは、同時に『森有礼外務大丞もまた、熱のこもった優しい目で、彼女のほの赤く上記した襟元をみつめている』ことを敏感に察します。そして『この時の予感は現実となり、ほどなく、「ライマン先生が広瀬常女と結婚したいと、といっている」という噂が、誰というとなく女学校中に拡がっていきました。「ライマン先生が、お常さんとの結婚の希望を、仮学校に申し込んだ」とも』こうして、とねにも<ライマン氏 広瀬常 娶たき願い>が伝わってきます。

■女学校、札幌移転

『明治七年の春ごろから、開拓使仮学校も女学校も、そろそろ札幌移転が近づいているらしい、との噂がしきりに』流れだし『とうとう、夏休みに入る前日のこと「夏休みが終わるそうそう札幌移転の予定」』と告げられます。『英学にあこがれて東京にのぼり、なお捨てきれぬ希望にあがきながら』とねは『札幌という原野の街で開拓事業に一生を捧げる気になぞなれそうもない自分をもてあますほどになってしまいます。』退学したくとも退学金のめどがつかないとねを尻目に退学金が用意できる女生徒は次々と学校を去ります。その中で広瀬常の退学については、黒田清隆・森有礼の取り計らいで『一銭の支払いもなく退学が許可されること』になります。『高位高官の命令はなんでも通ってしまう、当時の例のひとつ(中略)この一件を聞いたとき、怒りをふくんだ哀しみが私の胸にこみあげました。このまま私が退学できなかったら、まるで罪人のように、望まない遠い僻地に、引かれるようにして行かねばならないのですから』とねは嘆きます。『かつて函館で、父やキャプテン・ブラキストンから聞き知っていたあの札幌という、未開の原野に出現した街の、海のまったく望めぬ無味乾燥な風景を想像しただけで、暗い想いはますます胸深く澱みます。ましてや開拓を目標とした“農学校”式の教育に重点を置くことになるだろうという噂に、私の心は、苦渋に塗り込められていくのでした。かつて、あれほどに期待して海を越えてやってきた東京ですら、私には期待はずれの事件の連続でした。』『父にすべての悩みを打ち明けるには、あまりに高額な退学金の一件がからんでいて、父を苦しませることになると思い、私の胸の内をあからさまに手紙に認めることははばかられる』『そんな想いを、毎日毎夜、繰り返すさなか』とねは『とうとう熱病に侵され』ることとなります。

■エドウィン・ダンへの共感

ライマンが広瀬常を見初めた宴席でとねは仮学校生徒の農業指導にあたっているエドウィン・ダンのスピーチに共感を抱きます。<ライマン・常>の話題から逸れますが、とねの当時の心境を現す挿話として、メモをしておきます。とねが共感を抱いた理由、それは、スピーチの中で函館郊外七飯の名が挙げられたこと、なによりも、期待からどんどんとかけ離れていく状況に飲み込まれてしまいそうな自らを重ね合わせ、心に響くものがあったから、と想像します。エドウィン・ダンのスピーチは次のような内容です。『「ただ今、私が開拓使青山第三官園で試作、試育しているものが、北海道の開拓用にそのまま使えるでしょうか。函館近郊の七飯で、まず成功させようと試みつつありますが、これとて成果は全くの未知数です。なぜなら、東京と北海道では自然条件が全く違っていますから。ましてや、北海道全島の農場に適するや否や、案ぜられてならないのです。私はただいま、七十人ほどの学生諸君に対し、一応、アメリカ式農業と牧畜に関する指導を行っていますが、北海道で開拓に必要な知識と技術を実際に実行するには、自ら手を下して為すこと、経験を積み重ねることが、どんなに大事かを修得させようとしています。しかも私は、学生をはじめ、開拓使の役人たちからも、専門の農業開発についてはもちろんのこと、あらゆる文明の知識についての質問を受けています。それらのどんな質問についても答えねばならないと思っています、恋愛や結婚についてさえも・・・・・・。むしろ私は、よろずなんでも屋先生でなければならないと自負しているのです。さあ、皆さん、なんでも聞いてください。」ダン先生の穏やかな性格と、自然の環境の違いをふまえたその説は、深く胸に染み入り、農作物のみに限らず、人間だって、それぞれの環境に適した生活があるに違いないのでは・・・・・・と、幼い思考のまま胸のうちで自問自答を繰返していた私でした。』

キャプテン・ブラキストンとエドウィン・ダンが鱒釣りをしたというスポットが真駒内から定山渓へ向かう途中にある(以下画像参照)。
以下は過去ブログ内のメモ
http://blog.livedoor.jp/heatwave2012/archives/25401027.html

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