環境保護はエゴである。しかし、

環境保護は、エゴである。
という命題に、有効な反駁を与えることができる人は、ぼくはほとんどいないと思う。

「美しい海や山を守ろう!」
「豊かな生態系を保護しよう!」
「地球は人類だけのものではない!」

という、われわれ大衆の庇護心を刺激するセンセーショナルなデマゴーゴスが、頒布されている。ぼくは、そういうものを見ると、なにかもやもやするところがある。

人類の驕り、ここに極まれりな感がする。

そもそも、人間はただの動物で、他のすべての動物と何も変わらない。ただ、情報の伝達と保存が他の種類に比べて得意なだけだ。人間はチーターより走るのが遅いし、おおくの種が持つ超音波ソナーを持っていない。ある種の樹木のように永い時を生きられない。

何も変わりがない。ちっとも特別じゃない。

なのに、他の種の生存を身勝手に請け負い、勝手に責任感を感じて、環境保護だなんだとほざき散らかしている。

生物は全員、自分のことだけか、よくて、自分の周りの友達とか家族くらいのことしか考えていない。自分の生存だけが至上命題で、それ以外は、ゴミ。

人間が環境保護をするのも、自分たちの生存とか、自分たちの気持ちよさのためだろ。そうだろ。

環境保護はエゴである。

しかし、それは人間を含む自然のあるべき姿であり、なにも間違っていない。

人間が少しでも長く生き延びるための醜い足掻きが、昨今の環境保護の流行だ。

そもそも、他の生物のことを本当に考えていれば、人類は全員雁首揃えて自殺するべきだ。それは極めて不自然だけれども。

生けとし生けるものの行いはすべてエゴだ。生きるために殺す命の数と、生み出すものが釣り合っていない。自分が生きるためなら何者をも殺すし、何者からでも逃げる。

本来人類が生きるために他の生命が死んだところでどうでもいい。ただ、人類が多くなりすぎて、他の生命が死にすぎて、今度は人類も死ぬかもという、生態系の論理的帰結が訪れそうなだけだ。

だから、環境保護という話になる。

これは、「良いこと」「善行」ではない。

本質的に殺すことと同じなんだ。本能の所業だ。



めっちゃ話逸れたけど、大学の一般教養の授業がなんだかSDGsじみすぎていて気持ち悪かったので、吐き出した。

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