見出し画像

「願うこと」が「叶う」コツは?



ケチな人ときくと、必要以上に値段を気にするとか、とにかくなんでもギリギリかそういう出来るだけ自分から支払うものや何かが、ないことに喜びをを覚えるタイプの人とかそういう人の性格。

そんなことを思っていました。


そんなこと言って、あなたはケチではないって言いたいからこんな記事かいたんでしょ、とどこからか声がしそうですが、それもうっすらとあるかもしれません。


ケチじゃないければいいいなと思いますが。きっと場合によっては私だってものすごくケチになる場面というのはあると思います。(だって人間だもの、相田みつを 風にいいわけ)


でもところ変われば品変わるですね、ケチという言葉のニュアンスに今まで自分が考えていたのと少し違う意味がプラスされたことがありました。


「お願いごとをしない人がケチ」という表現をエジプトにいるときに耳にしました。


お願いごとをしない人がケチ?

しばらく意味不明でした。

このお願いごとというのは、何かのサービスを頼むというそういう頼みのお願いごとではなくて、自分が叶えたいことや、そうなってほしい事柄について「祈る」そういう意味合いのほうです。


日本でお願いごとというと、神社などにいって「祈願」をしてそこでお賽銭を払うということを思い浮かべます。


そこで、一円を払うよりかは10000円をはらったほうがなんだかお願いごとがかないそうな気がする。


そういうことを言うのだろうかと考えましたがもうちょっと違うようです。


日本でお祈りというと、「合格祈願」「安産祈願」というのがあります。

そういうお祈りのことをいいます、そしてそれは神社に行ったときばっかりじゃなくって、いつでもどこでもしたほうがいい。


できるだけ全部自分の欲しいこと、叶えてほしいこと、平和への祈りでもなんでもいいから、とにかくお祈りはいっぱいする。

それがケチじゃない人。


そういうニュアンスでした。

どっちかというと、いっぱい叶えたいことがあったら、一個だけ選んでお願いしたほうがかないやすい?

という変な思い込みが自分にはあるということを時々感じます。


そういうのがケチ臭いのです。


そして、どうか叶いますようにという すがるというよりも。


叶うのはいつかはお任せしますけど、叶えてください。という気持ちでもってお願いはするものだという心構えがあります。

ここで少しケチという意味を見てみました。

 ↓↓

https://furigana.info/r/%E3%81%91%E3%81%A1


日本でいうところの「ケチ」は物惜しみをすること。

というのが最初に来る意味なので、だいたい出し渋るという自分の持っているものというのがなんだかかかわってきます。

エジプトできいたところの「ケチ」は「お祈り」というところにかかったので、これは、可能性にたいして最初から制限をかける心のありかたがケチというニュアンスなのではないかということが見えてきます。


その根底には、水も空気も食料も地上の人間が必要分をとってもまだ豊かにある、そんな環境を与えてくれている存在にたいして、自分の思う願いがかなえられないというそんな遠慮をしていてはいけない。そういうこともあるようです。


ぐるぐると考えた末に私がおもったのは、なにかを願ったときに自分の中に眠っている可能性をつかうことは本当はめんどうくさくて、できるかぎり楽にいきたいがためにお祈りは一個だけにする、そういうことがあるのなら

それは自分に対してケチってるっていうことは、ある意味、自分で自分の首を絞めてるみたいな状態なのかもしれない。


自分に対して自分をケチる。願い事すらなく、なにかを始めるまえから、自分を見くびっている状態、、、これはなかなか、気が付くと陥ってしまっているかもしれないと思います。