見出し画像

Inflation Reduction Act(インフレ抑制法)①~薬価交渉プログラム~


1. Inflation Reduction Actとは

Inflation Reduction Act(IRA、インフレ抑制法)は、2022年8月にバイデン政権下で成立した比較的新しい法律で、気候変動対策の法律としても知られるものですが[1]、処方薬の薬価に関する改革もその内容に含んでおり、中には製薬業界に大きなインパクトを与える新プログラムの創設も含まれます。

処方薬の薬価に関する改革は、具体的には、

Part 1:Lowering Prices Through Drug Price Negotiation
Centers for Medicare & Medicaid Services(CMS)に特定の処方薬の薬価交渉を義務付ける

Part 2:Prescription Drug Inflation Rebates
一定の要件を満たす新薬について、インフレ率を超える値上げをした場合にCMSへのリベートを義務付ける

Part 3:Part D Improvements and Maximum Out-of-Pocket Cap for Medicare Beneficiaries
Medicare Part Dを改善し、受益者の自己負担額に上限を設ける

Part 4:Continued Delay of Implementation of Prescription Drug Rebate Rule
保健福祉省(HHS)のリベートの取扱いに関する規則の施行を延期する。

Part 5:Miscellaneous
雑則。(インスリンの自己負担額を月35ドルに制限するといった具体的な内容も規定されています。)

といった事項が挙げられています(IRA Subtitle B -- Prescription Drug Pricing Reform Part 1~5[2]。なお、Medicareについては「米国の公的保険制度~Medicare、Medicaidとは?~」をご参照ください。)。

今回の投稿では、特に製薬業界へのインパクトが大きい"Lowering Prices Through Drug Price Negotiation"(以下「薬価交渉プログラム」といいます。)についてさらに補足していきます。

2. 薬価交渉プログラム

概要

IRAは、CMSに対して、他に同様のジェネリック医薬品がなく、かつMedicareにおける支出額が最も大きい新薬(※例外規定もありますので、必ずしも支出額の高い順に選定されている訳ではありません。)について、製薬企業との薬価交渉を義務付けています。交渉は以下の順序で行われることとされています。

2026年に適用:Part Dでカバーされる10種類の医薬品(公表済み)
2027年に適用:Part Dでカバーされる15種類の医薬品
2028年に適用:Part BまたはPart Dでカバーされる15種類の医薬品
2029年(以降毎年)に適用:Part BまたはPart Dでカバーされる20種類の医薬品

2026年に適用される医薬品の薬価交渉タイムライン

2026年に適用される医薬品の薬価交渉のタイムラインは2023年1月11日に公表されています[3]。今のところ、このタイムラインに沿ってCMSによるガイダンスの公表、情報収集、2026年に適用される医薬品のリストの公表等のプロセスが進められています[4]。

(2024年以降のプロセス(一部))

  • 2024年2月1日:CMSが2026年に適用される医薬品の最大公正価格(maximum fair price(MFP)。Medicare受益者が当該医薬品を使用する場合の価格の上限)に関する最初の提案(initial offer)を対象の各製薬企業に送付する期限。

  • 2024年3月2日:各製薬企業がinitial offerを受諾するか、反対提案をする期限。

  • ~2024年8月1日:各製薬企業とCMSとの交渉期限。なお、交渉は最大3回まで行うことができる。

  • 2024年9月1日:CMSが交渉されたMFPを公表

  • 2025年3月1日:CMSが交渉されたMFPに関する説明を公表する期限。

  • 2026年1月1日:交渉されたMFPの適用開始

2026年に適用される医薬品のリスト

2026年に適用される医薬品のリストは2023年8月に公表されています[5]。大手製薬企業が名を連ねており、また費用の総額や対象患者数も大きいことから、薬価交渉プログラムのインパクトの大きさが窺われます。幸い(残念?)なことに日系製薬企業の製品は対象に含まれませんでした。

2026年に適用される医薬品のリスト

3. 薬価交渉プログラムに関する製薬業界の反応

薬価交渉プログラムに対するPhRMAの見解

研究開発志向型製薬企業とバイオテクノロジー企業を代表する団体であるPhRMA(米国研究製薬工業協会)は、薬価交渉プログラムに関して次のような見解を表明し、本プログラムの問題点を指摘しています。

このプロセスは、低分子医薬品(タブレット、カプセル、ピルなど)が米国食品医薬品局(FDA)によって最初に承認されてから7 年後、高分子医薬品(注射または注入される生物学的製剤)がFDAによって最初に承認されてから 11 年後に始まります。この制度は研究開発(R&D)プロセスの性質を無視しており、医薬品がFDAに承認された後の継続的な研究開発を妨げ、一部の種類の医薬品は患者の現実生活に与える価値がないとみなしています。また、このプロセスでは、新しい患者集団、新しい疾患、疾患の新しいステージなどの新しい用途で医薬品が承認されるにつれて治療価値が時間の経過とともにどのように増加するかも無視されています。
政府が特定の患者集団に対する一部の医薬品や治療法の開発を阻止することで、実質的に勝者と敗者を選別しているため、バイオ医薬品研究企業は医薬品のR&Dのどこにどのように投資するかを再考する必要があります

PhRMA(https://phrma.org/en/Inflation-Reduction-Act)から一部抜粋の上和訳。強調追加。[6]

本投稿では薬価交渉プログラムの対象となる医薬品の選定方法について詳細な説明を省きましたが、医薬品は最初の上市後も適応拡大するなどしてより多くの患者さんの健康に寄与していくものですので、PhRMAが指摘するように、現在の選定方法では企業の研究開発活動に悪影響を及ぼす可能性は否定できません。

IRAを巡る訴訟

薬価交渉プログラムの対象となった医薬品について、各製薬企業は交渉参加自体には合意しています[7]。しかし、同時に薬価交渉プログラムの差止めを求める訴訟を提起しています。訴訟は全米各地で計9件発生しています[8]。

  • Novo Nordisk et al. v. Becerra et al.(ニュージャージー州)

  • Novartis Pharmaceuticals Corporation v. Becerra et al.(ニュージャージー州)

  • Janssen Pharmaceuticals, Inc. v. Becerra et al.(ニュージャージー州)

  • Bristol Myers Squibb Co. v. Becerra et al.(ニュージャージー州)

  • AstraZeneca Pharmaceuticals LP et al. v. Becerra et al.(デラウェア州)

  • Boehringer Ingelheim Pharmaceuticals, Inc. v. U.S. Department of Health and Human Services et al.(コネチカット州)

  • Dayton Area Chamber of Commerce et al. v. Becerra et al.(オハイオ州)

  • Merck et al. v. Becerra et al.(コロンビア特別区)

  • National Infusion Center Association et al. v. Becerra et al.(テキサス州)

※多くの訴訟で被告となっているBecerraは保健福祉省(HHS)長官。
※上記の他、Astellas Pharma US, Inc.もイリノイ州で提訴しましたが、薬価交渉プログラムの医薬品に自社製品が含まれないことが明らかになった後に、訴えを取り下げています。

各訴訟によって主張は若干異なりますが、デュープロセス違反(合衆国憲法修正第1条、修正第5条)、収用条項違反(修正第5条)、過大な罰金(修正第8条)といった主張が多くみられます。これらの大半が現在も係属中ですが、一番下に挙げたテキサス州の件では、2024年2月12日、被告による請求棄却申立て(motion to dismiss)が認められました

(※この段落は米国の民事訴訟制度を学んだことを前提とした若干込み入った説明となります。前提の説明を省いていますので、参考程度に読み流してください。)
その理由は、原告であるNational Infusion Center Association(NICA)の主張は、Medicare Actに基づくもの(”arising under” the Medicare Act)であるところ、一定の例外に該当する場合を除き、連邦裁判所のfederal question jurisdiction(subject matter jurisdiction(事物管轄)の一種)は認められないとされているが、本訴訟では例外に該当する事情がなく、事物管轄は認められないというものです。また、共同原告として、PhRMAなども訴訟に加わっていましたが、NICAの主張に事物管轄がないことを前提とすると、訴訟が係属しているWestern District of Texasの連邦地方裁判所はimproper venue(不適切な裁判地)であるとして、残りの原告との関係でも請求を棄却しました。

このテキサス州の連邦地方裁判所の判断は、他の係属中の訴訟に直接の拘束力をもたらすものではありませんが、何らかの影響を及ぼす可能性もあります。他の訴訟8件はこれから判断が示されますので、引き続き訴訟の動向に注目したいところです。


[1] 例えば、再生可能エネルギーに関する内容は、環境保護庁(EPA)のウェブサイトで確認できます。(https://www.epa.gov/green-power-markets/summary-inflation-reduction-act-provisions-related-renewable-energy

[2] CONGRESS.GOV H.R.5376 - Inflation Reduction Act of 2022(https://www.congress.gov/bill/117th-congress/house-bill/5376

[3] CMS「Drug Price Negotiation Timeline for 2026」(https://www.cms.gov/files/document/drug-price-negotiation-timeline-2026.pdf

[4] CMS「Fact Sheet: Medicare Drug Price Negotiation Revised Guidance」(https://www.cms.gov/files/document/fact-sheetrevised-drug-price-negotiation-program-guidance-june-2023.pdf

[5] CMS「Medicare Drug Price Negotiation Program: Selected Drugs for Initial Price Applicability Year 2026」(https://www.cms.gov/files/document/fact-sheet-medicare-selected-drug-negotiation-list-ipay-2026.pdf

[6] PhRMA(https://phrma.org/en/Inflation-Reduction-Act)から一部抜粋の上和訳。

[7] ホワイトハウス(https://www.whitehouse.gov/briefing-room/statements-releases/2023/10/03/biden-harris-administration-takes-major-step-forward-in-lowering-health-care-costs-announces-manufacturers-participating-in-drug-price-negotiation-program/)なお、リンク中の表によれば、各医薬品につき交渉担当となる企業が決められているようです。例えば、Eliquis(エリキュース)はブリストル・マイヤーズ・スクイブが交渉参加企業として挙げられています。

[8] O’Neill Institute(https://litigationtracker.law.georgetown.edu/issues/inflation-reduction-act/)のまとめを参照しました。

(写真:2023年10月に旅行したロッキーマウンテン国立公園(Bear Lake)にて。アメリカの医薬品のCMに出てきそうな風景。)

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?