啓示とは何か

1 命の危機の神学的意味

ちょっとばかり神学の話をしよう. 人はよく命の危機である状態に自分が置かれている, ということを平然と口にする. しかしそれは嘘である. なぜならば, 自分の状態がまがりにも自分で認識できているだけ, その人の理性は働いており, 理性が働いているのなら命の危機を脱する方法を考えようとしているからである. そして本当に命の危機だと認識しているのなら, その人は行動に移す可能性が高いのである.

では本当の命の危機とは何か. 自分が命の危機にある状態から突然第3者の手によって救われたという事実を認識した時である. つまり, 自分には自分の命を救う手立てがないことをまざまざと認識させられた時である. 人間は普段は自分のことは自分でなんとかできるという妄想, 嘘, 傲慢の上に生きている愚かな動物であるが, 本当に命の危機に晒されれば, それが全て妄想であることに嫌でも気づく.

気づかないという反論があるかもしれないが, それはその人にとって本当の命の危機に陥っていないということを表現しているに過ぎない. 要するに自分だけでは何もできないのだ, という人間に生まれた動物である限り絶対に受け入れるべき事実を, 感覚としてあるいは直観として受け入れられる状態が, 命の危機に瀕していることの証左なのだ. そのような時に「神の啓示」を受ける人がほとんどである.

2 神の啓示の不可避性

これは受け入れるか受け入れないかという二者択一を迫る者であって, 判断を保留することは絶対に許されない, というよりも人間が神の判断を保留するということは大いなる傲慢であって, 人間が判断を保留しようとするなら, 更なる「神の啓示」が来るはずだ. 繰り返すが「神の啓示」を受けた人間はなんらかの判断を実行する義務を負うことになる. 例えその義務がその人間にとって良くない結果を招くとしてもである.

大体において, 人間が人間の行動の善悪を決定できるという思想は, プロテスタントなどのキリスト教からしたら, 神への大いなる反逆罪に値する思想であり, 断固としてこれは排斥されるべき思想なのだ. キリスト教とは簡単に言えば, 人間中心主義の徹底的な否定を行い続けることで, 神の救いという肯定を得ようとする救済宗教である. キリスト教の信者は, その信仰が本物であれば, イエスキリスト(これはイエスというありきたりな男が, 油を注がれた者, つまり神から認められたものという意味である)が最後の日あるいは審判の日に再び人間界に降臨することを本気で信じているのであって, それを疑うことは信仰に反するのである.

この話は専門的には終末論という神学の一分野の話であり, これを巡っては数千年間論争が続いており, いまだに決着を見ない. というよりも正確には, キリストの降臨が現実になるその日まで全く人間には解決不可能なテーマであると, 私には思われる. 人間存在の根本否定が人間存在の根本救済である, とするキリスト教の思想および信仰に私は深く共感する. なぜならば, 歴史がそれを示しているからだ. つまり, 人間存在を根本的に肯定するたくさんの思想によって動かされた歴史的事実は, そのほとんどが悪逆非道という形で後世に残されているからである.

3 人間は悪である

人間は存在そのものが悪なのであって, いくらそのような人間が人間の力だけで善を目指そうとしても, 無理な話なのである. 私はキリスト教の信者ではない(なぜなら洗礼を受けていないからだ)が, キリスト教の特にプロテスタント(元々の意味は「抗議する者」であり, カトリックに抗議する思想集団のことを指す)の思想に深く共感しているし, 私はこれを知ることがよいことであると直観する.

要するに, 人間という存在を最もよく捉えている思想がプロテスタントであると思っているということだ. 我々人間は自分の存在を全否定するような思想を受け入れることは簡単にはできないし, できていたとしてもそれは神から見れば傲慢な勘違いである. 人間は人間である限り神にはなれないのであって, それを唯一成し遂げたのが, 神であり人であるイエスキリストただ一人である.

イエスキリストを通してのみ, 我々人間は神の思想に近づけると考えることができる. 神とは何か, 人間ではない者である. 人間とは何か, 神ではないものである. ではイエスキリストとは何か, 神であり人である. 今のこの一連の問答に論理的にはいくらでも反論できようが, キリスト教ではこの反論は一切受け入れない. なぜなら, 人間は論理および理性によって議論が適切にできるという啓蒙主義, あるいは知性主義というものに対し, キリスト教は根本からそれを否定するからだ.

もともと存在自体が悪である人間が生み出した理性や論理などを, 信頼できると考えることそれ自体が悪なのである. 私は何も人間に理性が備わっていないと言っているのではない. 理性が備わっている人間存在が悪であると言っているのである. この違いは決定的である. 理性がなければ人間ではない, これは最近の動物学者からすれば否定されそうな命題ではあるが, 絶対に正しい命題である. なぜならば仮に存在したと仮定した動物の理性を, 証明する手立てを人間は持っていないし, 持っていたとしてもそれが本当に正しいのかを人間は証明できないからだ.

4 ヘーゲルという悪魔

ようするに, 人間は全ての事柄の原因を理性的に探求することは不可能なのである. この点においてヘーゲルの壮大な哲学は, 人間の現実を捉え損なった. 人間には限界があるという, 当たり前の事実をヘーゲルは意図的に無視したか軽んじたのである. その点で言えば, まだカント哲学の方が, 「物自体」という人間の理性からするとアプリオリな概念を有する哲学体系なので, いくらかましである.

それでもプロテスタント特に危機神学(弁証法神学)からすれば, 議論の冷徹さが人間存在の現実に比べて, 甘々であると評価されうるのだが. ともかくキリスト教の思想を学ぶことは, 人類にはどうしようもない出来事に対応する術を学ぶことである. 差し当たりは, カールバルトの「ローマ書講解」やヨゼフフロマートカの「神学入門」などを読まれてみるとよい. あるいは旧約聖書および新約聖書を, 己の全存在をかけて読んでみるとよい. 私のこの拙い論考が何を言おうとしているのかを, ひょっとしたら理解しやすくさせてくれるだろう.

なお, これくらいの文章は30分あれば容易にかけるものである(推敲は一切していないが)ことは表明しておこう. 普段から自分の頭で考えようとしている人間は, その限界を知りつつもこれくらいのことはやってのけるのだ, という細やかな反抗である. 何に対する反抗かは, 読者の皆様の解釈に委ねようと思うが, 間違っても神への反逆だなどとは思わないでほしい!

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