言葉の洪水に流され, 抗い, そして自らもまた言葉の洪水の一員となって, 一因となっていく...

私は一日に, 平均して2リットル, いや, 3リットル程度の水分を, 直接に補給する. 直接に, とはどういうことかといえば, 液体として水分を飲むということであり, さらに言えば, 食べ物に含まれる水分は, 直接にという言葉によって包摂されていないということである. 私は文字通り, 毎日が毎日, 水分による洪水の真っ只中にいるのであり, 自らをしてその真っ只中に存在せしめているのである. 誰も私を邪魔することはできない. 私を邪魔することのできるものは, 私であって私ではないものすべてである.

水は流れることもできれば, 止まることもできる. いや, 正確に言えば止まっている水など存在しないのであろうが, 人間の目で見るレベルで言えば(あるいは, マクロ的に見ればと言っても良い)止まっている水の存在を確認することはできるはずである. 水分子ひとつひとつで見るということと, 水を総体として見るということとは, 単に水分子ひとつ一つの集計が総体としての水である, とは言い切れないがゆえに, 異なるのである. 古代ギリシアの人で, 万物の始原(おそらく原語では, アルケー, というものを使っているであろう)を水である, と想定した人がいたようないないような気がするのであるが, 流れることもあり, と同時に止まることもあるような, それ自体で生成と存在とを兼ね備えるものを, 万物の始原(あるいは根源)と想定する人がいたと思われることは, 興味深いことである.

サラサラな水もあれば, ドロドロの水もあり, 爽やかな水もあれば, 濁っている水もある. しかしそれらはともに, 水という共通要素を持っている. 人間は, 最初は観察することによって, 水というものの共通要素を探ろうとするのであるが, いな, 正確に言えば, 様々なものを観察した結果として, こういう要素を持つものを「これこれ」とか「それそれ」とか名付けようと, 最初はするのであるが, 次第に, 「これこれ」とか「それそれ」とかを基準にして, それにそぐうものとそぐわないものとを批判する(クリティークする)ようになる. だが, 批判の前には直観が必要である. というよりも直観無くして批判を行うことはできない. だから懐疑論者は批判という作業を行うことができないのである.

私は水を飲む. それが天然水であるかコーヒーであるか麦茶であるか, はたまたそれ以外のものであるか...これを書いている瞬間の私には知る由もない.

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