本気じゃなくても、真剣ではある

2024/04/21

“本気”ってなんだ

ふと空を見上げるときに考えた。
夜の12時過ぎ。
薄暗い空に星が全く見えない夜。

みんな誰しもが本気になる病気にかけられている。
受験戦争から就職戦争に、はたまたスポーツ、ゲームの競争にかけて、僕たちは人生の初期段階で“本気”をよく強要されて育つ。

親、教師、コーチ、友人に至るまで、この本気請求を突きつけられる。
タチが悪いのは、この“本気”の美徳を投げかけてくる人間は大抵何か自分よりも優れているように見えてしまうことだ。
もっと本気になれよ、と投げかけてくるやつは本気になったと錯覚している人、もしくは自分の苦労した体験を本気になったから切り抜けられたと考えている人間だ。

でも、本気を出せというのはどういう決定権があって発言しているのか。

とにかくがむしゃらに、無理をすることが本気なのでしょうか。

僕は自分で本気を出しているという実感はない。
というより、「本気でやっているんだ」って理性的に考えて、何か物事を遂行していることで上手くいったためしがない。

時間が経って後から「あぁ、あれは本気だったのかもな」とちょっと振り返るくらいが関の山だろう。
よく頑張ったね、とか、めちゃめちゃ良かったよ、とか言われる時は大抵本気で頑張ったと思っていない。

ただ、“真剣に向き合った”。
ただ、それだけだった。

“本気で頑張った”っていう努力の単位で推しはかったものではなく、“真剣に向き合った”っていう姿勢の問題だ。

もはや本気という概念は、他人にどうやって頑張りを承認してもらうのかという安い指標に成り下がってしまった。
しかし、真剣は、自分の心との対話だけでいい。
真剣になるか、そうでないのか、そこに本気のようなグラデーションはない。

とにかく言われるがまま受験勉強に取り組む学生と、勉強をすることでどんな意味があるのか考える学生。

前者は、とにかくいい大学に入って、就職で無駄な労力を割かずにできるだけ自由な選択ができるように、ととりあえず勉強する。
とにかく授業に集中し、自習室に熱心に通い、塾にも行く。
なんて本気で頑張っている学生だろう、と周囲は思う。

反対に、勉強ってなんの意味があるんだ、と考える学生。
なんで数学のテストで電卓が使えないんだ。
なんで人の名前を覚えなきゃならないんだ。
なんで作文に点数がつけられるんだ。
学校の勉強、受験の勉強に疑問符だらけで、お勉強が進まないからテストの点数が下がっていく。
お前は本気で勉強していない、と詰られる。

どっちが真剣だろうか。
そりゃあどっちも真剣だろうという斜に構えた賢い人には言われそうだが、前者を真剣だとは僕は思わない。
なぜなら、目の前にある障害をとりあえず上手く乗り越えようとしか考えていないからだ。

上手く乗り越える、勝つ、成功する。
それがなんであるのか、なぜそれが正しいのか、なぜこれが間違っていると言われるのか、疑問を初めから無かったかのように振る舞い生きる。
だから本気で欺く。
だから本気で逃げる。

でも、真剣だったら結果はどうでもいい。
その人にとっての真剣があれば、自己完結できるから。

だから、本気じゃなくても、真剣になればいい。
自分は本気になっていないんじゃないか、周りに比べて自分はまだまだ頑張りが足りないんじゃないか、と自分を責め続けている人もまだ“本気病”にかかっている。
そんな時は、その物事に真剣に向き合おうとしてるのか、という自分の気持ちを確認してみてはどうだろうか。