見出し画像

「自己」と「他己」と「交流モーター」のこと。

「自己肯定感」ということばを知ってから、
ずいぶん経つけれども。ぼくはさ、じつは、
このことばのほんとうのところの意味って、
よく知らないのよねえ。

ぼくが「自己肯定感」と聞いて思うのは、
自己を「肯定」するだけだと、
なんでもやりたいほうだいになってしまうから、
これだとよくないじゃあないか?! って、
ときには、自己を「否定」することも
だいじなんじゃあないかなあ。
みたいに感じたりもするけど。

ポジティブだけじゃあなくって、
ネガティブも、ひつようじゃん。
みたいな。。。

ぼくの考えているイメージで言えば、たとえば、
+極と−極が入れ替わることでぐるぐる回る
「交流モーター」のごとく、
「肯定」と「否定」を交互に繰り返すことによって、
自己がうごきだす。つまりはさ、
「肯定」だけでも、
「否定」だけでも、
どちらか一方だけではうごかなくて、
「肯定」と「否定」が噛み合うことで、
じぶんをうごかす「力」が生まれる。的な?????

でも、おそらく、
「自己肯定感」ってば、じっさいは
そういう意味のことでもなくって。
たとえば、どんなときにでも
じぶん自身が「だいじょうぶ」だと思えるような、
「自己大丈夫感」みたいなことかねえ。
とは思っているんだけれども。
でも、なんだか、これだと、
「自己」「自己」「自己」ばっかりで、
自己中心的なのかもなあ、のようにも感じられてきて。
そうだともすれば、できれば、
じぶん自身の反省の意味を込めて言うなれば、
「自己」のほうではなくて、
「他己」に目を向けられたら。と思うの。

これを「自己肯定感」のぎゃく的で言えば、
他人のことを、
ばかにしたり、みくだしたり、なめたりしないで、
そして、損得や忖度の感情を抜きにして
肯定できるような、
「他己肯定感」があればよいんだろうなあ、
とも思っているんだけれどもぉ。
それらが、なかなかできていないじぶんとしては、
反省でしかないか。

じぶん自身の外側にあるものごとを、
すてきだなあー!
って思えるようでありたいの。

令和3年3月31日


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?