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主体であり、客体であり。

以前にね、友人と話していて、
何の話しだったかは憶えてないけど、
すこし言い合いになりながら、
ぼくは何かを伝えたくてそれを言うと、彼は、
「それは、ひでし(ぼくの名前)の
 主観に過ぎないでしょ。」
と言ったんだった。

ぼくは、友人のこのことばを聞いて、
なんだか、なるほどぉ。
と思ったんだった。

ぼくの考えることは、すべて、
ぼくの「主観」に過ぎない。

彼の考えることは、すべて、
彼の「主観」に過ぎない。

その人の考えることは、すべて、
その人の「主観」に過ぎない。

というふうな感じってさ、じつは、ぼくも、
けっこう思っていたふしもあると思うけど。
はっきりそう言われてみると、
そこには、ちょっと、まだ考える余地が、
あるような気がしたのよねー。

つまりはさ、考えるのは
「主観」と「客観」のことなのですが。
彼が言うとおり、
ぼくの考えることは
ぼくの「主観」に過ぎない、ともしても、
その考えには「客観性」は何も無いのか?! って、
うーんと、やっぱり無いんかもしれんけれど、
でも、それでよい。と思ったの。

ぼくは、物事を
「客観的」には見られなかったとしても、
仮に、ぼくが「主体」なのだとすれば、
世界のすべての人は「客体」となって、
他人が考えること、つまりはさ、
他人がぼくに言うことは、
ぼくから見れば「客観」となる。

そんなふうに思えたら、
なんだか、ぎゃくに、
けっこう気が楽になった。ってゆうか。

だれかの「主観」が、
ぼくにとっての「客観」となる。となれば、
ぼくは、どうしたら客観的に成れるんか?????
って、悩まなくてもよくなるし。
ぼく以外の人は「他人」なのだと思えれば、
「他人」が考えることは、すべて、
ぼくには、もう、どうしようもないわけで。
それで、あきらめることができる。というか。

「主観」と「客観」について、
哲学の思想のほんとうのところは、
どうなのか知らないけれども。
ぼくとしては、なんか、
そんなことを思ったんだった。

私以外私じゃないのぉー 当たり前だけどねっ だからぁー

令和3年6月28日


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