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ヴォイスによって導かれてゆくこと。

前回noteでは「声」について、たとえば、
ぼくが好きな歌を聴こうとするときには、
その歌を歌われる歌手の方の
「歌声」が好きなのかもしれないなあ!
みたいなことをしるしたのですが。
そういうような、つまり、
誰かを魅了するかのような「声」とは、
特別であり、かつ、唯一無二であり、そして、
ぼくはさ、「才能」ということばって
なんだかすこし苦手ではあるんだけれども、
でも、そんな「声」というのはその人に備わる
「才能」と言えるやもしれない。

たとえば、歌手の方々が
その歌声を自然と、つまりは、
そのままで出されているのか、それとも、
意識的に、と申しますか、つまり、
その歌声を出すにはどうしたらよいのか、を、
研究なされるようにして、もしくは、
どういう歌声がよいのか、を、
発明なされるようにして創造されたのか、
というのは、ぼくにはわからないですが。
それが仮にどのようにだったとしても、
その「声」とは、やはり
「才能」と言えるのかもしれないか。

そのような「才能」の「声」は、
おそらく、歌手の方だけに限らず、たとえば、
芸人さん、俳優さん、アナウンサーさん、タレントさん、
ディスクジョッキーさん、落語家さん、などなど、
テレビやラジオや芸能に関する以外のご職業でも、
学校の先生、病院の先生、そして
政治家の先生にも当てはまるでしょうか。

政治家で言うとすれば、
アドルフ・ヒトラーは演説において、
その声によって、人々を熱狂させた、
というお話しも聞いたことあるけれども。
たとえば、「声」というものは、
人々を魅了させて、熱狂させて、
よくも、及び、わるくも、どこかへと
導いてしまうものなのかもなあ。
って思うともすれば、とっても
おそろしいものでもあるなあ、と思われる。

ある意味で言えば、
「文章」だってもそういうものなのかなあ?
「文章」を書くことにおいて、村上春樹さんが、
「ヴォイス」が大切である、
というように言われていたと存じますが。
この「ヴォイス」というのは、ぼくは、
どういうことなのかよくわかってないけれども、
たとえば、文章を読んでいるときにね、
脳内で、その文章が
「声」として聴こえてくるようにして
読んでいることがあって。
それはつまり「声」、言い換えれば、
「ヴォイス」とも言えるのかなあ。

さっき、このうえのところでね、
「『才能』ということばはすこし苦手」
としるしたけれども、たとえば、
「文章」の才能を意味する
「文才」ということばも、
それを言っちゃあおしまいよ、というか、
でも、そういうものは、やはり、
あるかもしらない、とも感じたりもする。

そんなような
「才能」とも呼べるかのごとくの
「声」つまり「ヴォイス」によって、
ぼくらはどこへ導かれてゆくだろうか。

令和5年4月25日


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