映像とことばとイメージと。
テレビのニュースでは、その
ニュースの現場の映像が映し出される。
とくに最近では、街中の
「監視カメラ」の映像や、さらには
「視聴者提供」として、
ニュースの現場に居合わせた方が
スマホのカメラで撮影されただろう動画、及び、
ドライブレコーダーでの動画が、
ニュースの映像として映し出されることもある。
ニュースの現場を映像で観ると、やっぱり、
アナウンサーやキャスターの方が読まれる
原稿のことばではわからないようなことも、
ぱっと見で、わかる、
みたいなこともあるし。もしくは、
事件や事故や災害や戦争などの映像では、
真に迫ってくるものがある、と申しますか、
もっと言えば、あまりにも強過ぎて
直視できがたいような映像だって観ることもある。
そう考えてみれば、
映像とは、
すごい、と思うし、
つよい、とも思えるし、また、
こわい、というのも感じたりもする。
かと言って、映像だけでは
よくわからないこともあって。
その映像に映されているものは、
いつなのか?
どこなのか?
だれなのか?
なになのか? というのはさ、
ことばによって説明されなければ、
わからないこともあるんだろう。
映像というものが、いつごろ
出始めたかはよく知らないけど、
映像が出始める以前には、
映像は存在していなくって、つまり、
映像が出始める以前の映像は、
どこにも残されていない。
たとえば、
聖徳太子のインタビューとか、
邪馬台国の街ぶらロケとか、
縄文土器の制作風景とか、
打製石器の使い方講座とか、
文字の開発のメイキング映像とか、
ナウマンゾウの出産場面とか、
恐竜が大地を走り回っている姿とか、
地球が形成してゆくドキュメントとか、
ビッグバンの瞬間密着24時とか、
そういう映像は残されていない。
もしも映像があれば、もっと
わかることもあるんだろうなあ。
でも、そういう映像は無いんだから、
当時の文献であったり、
発掘された物だったり、
化石だったり、地層だったり、
なにかのデータだったり、を
調べることによって、
イメージするしかない。
それはさ、でも、この
今の時代においても、
地球上のすべての場所が、
撮影されているわけじゃあないんだから、
調べて、イメージする、というのは、
大事なことかもしれないな。
とも考えてみると、たとえば
「映像」があって、
「ことば」があって、
「イメージ」があって、
そのどれかひとつだけではなくって、
それらが組み合わさることによって、
わかる、とも言えるやもしらない〜。
令和4年11月17日