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ごくごく飲み干すかのごとく。

昨日のブログではね、本を読むこととは、
そのほかのどのような鑑賞よりも、
いちばんおもしろいんじゃあないか?
とも思っている、ってゆうのを記したのですが。

そう言われてみれば、でも、ぼくはさ、
昨日もすこしだけ書いたのですが、
20代半ばごろより本を読むようになって、
なので、子どものころ、つまり、
その以前までは読書が大の苦手だった。

現在41歳のぼくは、小学生のとき
学研の「学習」と「科学」を注文しておりまして、
毎月、家に届くのが、及び、
読むことがとってもたのしみだった。
けれども、それは雑誌なのだから、
読書とは言えないだろうなあ。
小中高と、「国語」の授業は不得意だったし、
読書感想文もいやでいやでたまらなかったし、
もっと幼いころは絵本も読んでいなかったし、
両親から絵本の読み聞かせだっても、
してもらったこともない。
そもそも、親も、本を読まないし、
なので、家には本自体が無かった。

そんなぼくが、どうして
20代半ばごろから読書をするようになり、
そして、本が好き! だと、
言ってしまうぐらいになったのかと申しますと、
以前のブログでもしるしているとも存じますが、
当時、つらい精神状況だったぼくを見かねて、
通っていた専門学校の先生から
「私は、本を読んで救われたことがある。」
とのように説教していただいて、それから、図書館へ行き、
借りて読んでみた小説がおもしろかった、
という経験があるから、なのですが。

このとき、先生には
「どんな小説を読めば良いですか?」
と訊ねると、先生曰く
「それは、知らない。でも、私は
 村上春樹さんの小説を読んで救われたことがある。」
とのことでしたので、そのほかの
小説家さんのお名前も全く知らないぼくは、ならば
村上春樹さんの作品を読もうと思い、たまたま、
図書館の文庫コーナーで置かれていた
『国境の南、太陽の西』を借りたのだった。

この読書のときに思ったのはね、
小説、おもしれー!
という感情なのですが。
もっと言えば、たとえば、
めちゃくちゃ喉が渇いているときに、
めちゃくちゃおいしい水を、
ごくごく飲み干す感じ、的な?!

あの感覚って、それまで
味わったことなかったなあ、
ってえのは、今、あらためて想うのですが。

でもさ、とは言えども、
たとえば、みんながみんな、
村上春樹さんのこの小説作品を読んだとて、
そういうふうな感覚のままで、
読み終えられるのかどうか、というのも、
そんなことはないんだろうし。
はたまた、ぼく自身だってもね、
このとき、先生から
こういうふうに言われたからこそ、
読もうと思い、実際に読み、そして、
おもしろかった、と思うことができた、
って考えてみれば、そのほかのタイミングだったらば
読んでなかったやもしらないし、あげくには、
今もなお、本をおもしろい、とも
思えてなかった可能性もありうる。

でも、今、こうして
本を読むようになって、そして、
先生のおっしゃっていたような
「救われた」という気持ちも思っているのよね。

本を読むことって、
勉強のため、とか、知識を得る、とか、
高尚な趣味、とか、意識が高い、とか、
そういうふうな印象もある的だと存じますが、
(ぼくもかつてそう思っていたふしもある。)
ぜんぜんそうじゃあなくって、基本的には、
ごくごく飲み干す感じ、として
それ以上でも、それ以下でも、
ないやもしれない、とも思う。

でも、そんなような、たとえば
あまりにも渇いてしまった「心」が、
すんごい勢いで潤ってゆく、
みたいな感覚ってば、案外、
読書以外では見られない気もする。

音楽はそれと近いかもだけど、
音楽って、どちらかと言えば
「ごくごく飲み干す」よりも、
「そばで寄り添う」という感じなのかなあ。

もちろん、
本を読むことの毒、
みたいなこともあると思うけれども、
読書について、今のぼくとしては
そういうふうなことを考えている。

令和5年7月19日


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