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文章を書くということは。(選択にゆだねられているver.)

このごろのブログでは、あることばを
漢字で書くか平仮名で書くか、というのを
考えながら申していたですが。
ぼくとしてはね、あることばを
漢字で書くか平仮名で書くか、って、
ある意味ではどちらでもよいとも思っている。

文章をしるすときにおいて、たとえば、
文法上、平仮名で記すのが正しくとも
漢字で書いたとしてもよいし、そして
常用漢字では無い字を使ってもよいし、
逆に、漢字で書いたほうがよい語句を
平仮名で書いたとしてもよいし、また、
文章作成のガイドライン的なものに
則ってもよいし、さらには
文章を読みながら、そこで
常用漢字では無い字が使われていて、
じぶんには読めない熟語、及び
意味のわからないことばが登場してきたら、
辞書やスマホで調べればよいのだし。
どう書いたから、かつ
どう書かなかったから、
だめだ、ばかだ、仕事のできないやつだ!
とか、そういうこともないと思うのよね。

でも、たとえば、昨日申しました
障害という語句を文章でしるす場合には、
「障害」としるすか、
「障がい」としるすか、それとも
「障碍」としるすのか、というのはその
文章をしるす人の選択にゆだねられている。
そして、それらの選択には
その人の思想や考え方が表れている。

つまりはさ、文章を書くということは、
その文章の内容のことだけでなくって、
どんな語句を使うか、ならびに、その語句を
漢字で書くか平仮名で書くか、という
「選択」の連続であるとも言える。

たとえば、って、今、ぼくは
「たとえば」という語句をしるしたけれども。
たとえば、と言えば、そのあとで
なにかのたとえを書くことになるのだし、
しかし、と書けば、そのあとで
反対のことを書くことになるし、
つまり、と書けば、そのあとで
そのこと言い替えることを書くし、
そして、と書けば、そのあとで
さらにつながることを書いてゆく。
いわば、文章の中で
どんな接続詞の語句を使うかによって、
その文章の次が変化してゆく。
このこともまた、文章における
「選択」なのだとも思われる。

その「選択」には、
正しいとか、正解とか、模範解答とか、
そういうものはとくに無かったとしても、
それによって、じぶん自身の記す
文章が変わってきて、つまり、
じぶん自身が、その文章によって
どこまで行けるか? が変わってくるし、
さらには、逆を言えば、文章を書くことによって
じぶん自身の考えをも作ってゆくのでしょう。

なおかつ、たとえば
「文章を書く」ことが「選択」であるならば、
「文章を書かない」ことも、あるひとつの
「選択」なのかもしれないな。
つまり、「生きる」とは
選択である! なんてえのは、
ぼくには言い切れないけれどもぉ〜。

令和6年5月23日


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