現在をどう生きるか3

第17回 核実験の動機

前回noteよりひきつづき、吉本隆明さんの講演『現在をどう生きるか』(1995年9月3日・山梨県立文学館講堂にて)をゆっくりじっくり聴いてゆきます。ほんじつ、第17回めなのです。]

前回はさ、「この問題(フランスと中国の核実験)について僕が正しいと思っている判断の基準を申し上げます。例えば、フランスと中国の核実験はなぜ行われたか? と言いますと、両方とも、核兵器保有国としては二番手の国なんですよ。一番手はアメリカとソ連です。それで、二番手の国であるフランスと中国がそれぞれ核爆発の実験をやってる、というのが現在の核実験の実相です。」のばめんでした。

つづきを聴きやすー。

で、なぜ二番手の人…、あの。人じゃない、二番手の国が、あの、今どき、あの、核実験をやってるか? って言いますと、あの、モチーフは簡単なことです。
(チャプター03「核実験の論理」/2:08〜)

「それで、なぜ二番手の国が今どき核実験をやってるか? と言いますと、モチーフは簡単なことです。」

ここで吉本さんが「二番手の人」と言ってから「人じゃない、国が」と言い換えるのは、なんだか、ライブだなあ。と思いました。

また、さらにもうひとつ、吉本隆明さんの著書『13歳は二度あるか(だいわ文庫)』より「三人の間で起こることは、一億人の中でも起こる。(72頁〜)」のことを思い出したです。えーっと、なんとゆうか、たとえば「国家」も「人」もおんなじようなこと、みたいな?????

講演へもどります。。。

つまり、一番手の、えー。あの、アメリカとソ連の…、ソ連に対して、あの、なんて言いますか。二番手の核保有国として、つまり、あの。それと同等の少なくても発言権、って言いますか。

「つまり、一番手のアメリカとソ連に対して、二番手の核保有国として同等の発言権と言いますか、」

あるいは、同等の、あの、威力…。えー、威力示威と言いましょうか。

「あるいは、同等の示威(じい)と言いましょうか。」

‥‥という、ここでの「示威」とは【威力を示すこと。気勢を見せること。(広辞苑第七版より)】の意です。

それを、その。誇示したい、ってことが核実験の動機になってるわけです。

「それを誇示したい、ということが核実験の動機になっているわけです。」

‥‥はあ、なるほどぉ。

で、決して一番手の人の…、一番手の国の実験じゃないんです。二番手なんです。それがとても特徴です。

「決して、一番手の国の実験じゃあないんです。二番手なんです。それが特徴です。」

つまり二番手の、あの、国が、要するに一番手の米ソに対す…、の発言力だけが強くて、自分たちが二番手だ。っていうのは面白くない、ってことで。少なくてもこれと同等の発言力、あるいは同等に伍したい、というのがそのモチーフだってことは非常に明瞭なことなわけです。

「要するに、一番手の米ソの発言力だけがつよくて、自分たちが二番手だ、というのはおもしろくない。少なくともこれと同等の発言力、あるいは、同等に伍したい、というのがそのモチーフということは非常に明瞭です。」

‥‥という、ここでの「伍(ご)したい」とは、「伍する」という動詞が変格活用した形です。「伍する」の意味は【仲間に入る。同等の位置にならぶ。肩を並べる。(広辞苑第七版より)】ですっす。

こんかい登場しました「示威」と「伍したい」という二つの単語はさ、ぼくは知らなかった。調べられて、よかった。

そいじゃあ、このつづきはまた次回noteで聴くです〜。

平成30年7月29日


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