信じかたテキスト3

第20回 「考える」について考える。

【現在このnoteでは、吉本隆明さん講演『喩としての聖書−マルコ伝』を、ゆっくりじっくり聴いてゆくシリーズをやっています〜。】

前回noteにつづきまして、きょうも、寄り道的に考えてみたことを申しあげますっ。

それはねぇ、こんかいも吉本隆明さんおっしゃる「信ずる」のこと、さらに申しますと「肉体を信ずるような信じかたをしたらダメなんですよ。」のことなのですが。「肉体を信ずるような信じかた」とは、いったいどーいう信じかたで、「そうではない信じかた」はどーいう信じかたなのか??!

ぼくは、まだよくわかってないっ! なので、考えてみたい。

たとえば「信者」ということばってさ、とってもネガティブにひびいている気がするのよね。たいてい、よくない意味合いとして使われる。ぼく自身は、なにか明確な宗教徒では無いのですが、でも、たとえばぼくがファンであります「糸井重里さん」や「内田樹さん」や「Mr.Children」は、こう何て言いますか、ネット上では「信者」のように言われてるような気がして。

「イトイ信者」「ウチダ信者」「ミスチル信者」と言われれば、もう、そーだよ!! と言うしかないし。そうなんだろうなー、じぶんは「信者」なのだろーなぁ。とも思う。つまり、信じている、ってじぶんでは思う。(信者と呼べるほど、知らないかもだけど…)

ってなるとだよ、では、「○○信者」と言って批判する方々は「なにか」を信じているのかな?? ていう疑問はある。なにも信じない、だれのファンでもない、どなたにも憧れない、師のような存在が居ない、というのもそれはそれで、さもしい、とも感じるけど。

かと言って、ぼくのような「信者」みたいな状態も、じぶんで考えることができないただの盲目なんじゃねーか?! って自省する。。。

たとえば、落語家・立川談春さんが著書『赤めだか』で書かれていたような立川談志さんとの師弟関係や。先日放送『ブラタモリ』伊勢神宮の回で、タモリさんたちが神宮の外へ出ようと橋を渡ろうとしたら、出演された宮司さん(とお呼びするのかな??)が「わたしは宇治橋から向こうは行けませんので。」とおっしゃって。そういう(ぼくは詳しいことは知らないけど、)宗教的なきまりごとや。あとは、なんだろう。とっさには出てこないけど、そういう関係性をばかになんかできない。

えーっと、なにを言いたかったんだっけか????

あ、吉本さんの「肉体を信ずるような信じかたをしたらダメなんですよ。」のことでした〜。

これはさ、ぼくは、ぼくのような立場からでしか考えられないんですが。えーと。たとえば、吉本さんがこの講演の初めでね、「聖書」を「信仰の書」として読むのでなく「思想の書」として読む。というのをおっしゃってて。もしも、じぶんもなにかをそのように読んだり、見たり、聴いたりできれば、よいのかもしれない。とおもったの。

つまり、「わたしは信ずる。」と「わたしは信じないぞ。」のところを、たえず出入りできるような考えかた。と言うのは、吉本さん仰っていたように宗教的にはよい考えかたでは無いかも分かりませんが。

もしも、そーいうように「考える」ことができれば、「考える」ということが、できるのかもしれない。とおもったんだよね。

ぼくなんかは、どーしても頭で考えてしまうたちなので。それを「考え過ぎだから考えるのをやめたほうがよいよ〜!」って言われても、それすら、じゃあどーすれば「考える」のをやめられるんだろう??? ていうのを考えてしまうほうなので。これまた、どーしようもないんですが。。

そういう「考える」のこともおもいながら、吉本隆明さん講演『喩としての聖書』をまたちょっとずつ聴いてまいりたいと存じます。。。

2016年6月28日



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