つなぐ人。(今、パスをするver.)
人間は、何のために生きるのか?
と問うたとしても、ぼくにはそんなの
よくわからないと言えばよくわからないけれども。
つまり、たとえば、人が
生きることには意味があるかどうか、とか、
生きることには理由があるかどうか、及び、
それには理由が必要なのかどうか、ってゆうのをね、
考えたほうがよいのかどうか?!
みたいなふうに思ってみたとしても、
ぼくはあんまりわかんないけれど。
でも、なんだか、ときには
「生きる」とはどういうことなんだろう???
って考えたくなる日もあって。
このことについて考えてみるとすると、
たとえば、この世界とは
「これまで亡くなられた人」
「今、生きている人」
「これから生まれる人」
という三者の人々によって構成されていると思う。
そして、この世界で、実際に
物事を動かしたり作業したりできるのは、
「今、生きている人」だけだと考えられる。
つまり、この世界は
今、生きている人に預けられている、かつ、
今、生きている人に委ねられている。
だからこそ、生きているからこそ
できることはある、というふうにも思うの。
ならば、そのような
「できること」というのは、
どういうことなんだろう? ってえのも、
具体的にはわからないけれども。
たとえば、時間軸として
「これまで亡くなられた人」
「今、生きている人」
「これから生まれてくる人」
という三者を考える場合には、まんなかの
「今、生きている人」とは、まんなかなので、
そのあいだの人、と申しますか、つまり、
「これまで亡くなられた人」と
「これから生まれてくる人」とを
つなぐ人、というふうに思われる。
今、生きている人が
今、生きている人のために何かをする、
というのも大切だと思うし、はたまた、
今、生きている人が
これから生まれてくる人のために何かをする、
というのも大切だと思う。
でも、いちばんはさ、
これまで亡くなられた人が行ってこられたことを、
これから生まれてくる人のために、
つないでゆく、つまり、
パスをする、みたいなことも大切なのだと思うのよね。
たとえば、ぼくらはこうしてことばを、
つまり、母国語として日本語を
話したり書いたり聞いたり読んだりしているけれど。
国語の古文の授業で習ったようなかつての日本語と
今の日本語とでは、けっこう変化しているとしても、
それでも、日本語のことばだからこそ
なんとなくわかるような部分もあって、
それは、いわば、日本語という言語が
今もなお、残されているからこそ、
なんとなくわかる、とも思えたり、なおかつ、
今もなお、日本語を使うことができる、
というふうにも言えるのかなあ〜。
言語とは、時間を経ることで
無くなってしまう可能性もありうるからこそ、
日本語が、将来、
無くならないようであれたら、とも感じるし、
日本語だけでなく、あらゆるすべての言語には
かつての人たちの叡智が詰まっていると思う。
それは、いわゆる、言語だけでなくって
文化や芸術のようなものもそうなのかもしれないか。
逆を言えば、
今、生きている人が、
今、生きている人のことのみを考えてしまったら、
その世界は滅んでしまう、
というふうにも考えられるやもしれない。
選挙だってもね、あたりまえのことだけど
今、生きている人しか投票できないから。
たとえば、
今、生きている人だけでなくって、
これまで亡くなられた人、及び、
これから生まれてくる人も、
現在の選挙に投票できたら、
というのも思わなくもない。
でも、そうなったら、そうなったで
どうなってしまうかはぼくはわからないが。。。
なんだか、そんなことをね、
このごろは思っていたんだった。
令和6年8月25日