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心の岸辺。

たとえば、あるミュージシャンの
新作がリリースされたときの感想では、
「以前のほうがよかった」とか、
「昔とは変わってしまったわ」とか、
「昔は聴いていたのにダメになったな」とか、
そういうことばも、目にしたり
耳にしたりすることもあるけれども。

ぼくだっても、たとえば
とくに10代のころ、よく聴いていたけど、
あるときから、
あんまり聴かなくなってしまった、
ちょっと離れてしまった、
ということはあれども、でも、かと言って
「以前のほうがよかった」的なことは、
ぜんぜん、思わないな。

あんまり聴かなくなってしまった、
というときには、おそらく、
ミュージシャンの「作品性」も、
年月が経つことで変化するのだろうし。
おなじく、鑑賞者側の「感性」も、
年月で、変化してゆくんだろう。
ぼくの感覚としてはさ、そういうような、
「作品性」と、「感性」とが、
離れてしまったときに
「あんまり聴かなくなってしまった」
ということになるのだろうと思うの。

そんなふうに離れてしまったときには、
これまでずっと聴いていたならば、なおのこと、
さみしさやせつなさはあるとしても、それは、
「感性」が離れてしまっただけで、
「作品性」が悪くなったと結論するのは、
性急すぎる気がするのよね。

そういうときには、
「離れてしまったこと」によって、
またべつで、もっと聴くようになった
音楽があるのだろうから。
その、もっと聴くようになった音楽のことを
「すばらしい」って言えば、よいじゃん。
ってえのは、ぼくとしては思うけど。
それは、ちょっと角が立つだろうから、
表立っては言わないけど。。

あとは、でも、たとえば、
ずっと聴いているミュージシャンの
「作品性」が変化するようなときには、
その「作品性」に、
鑑賞者が、ついてゆく。
みたいな場合もあって。つまりはさ、
「I will follow you あなたについてゆきたい」
というよな、ある種のスイートピー的な、
いわゆる、SNSにおける
「フォロー」とはまたちがった、
「follow」というのもあるとぞんじますが。

どういうときで、
「離れてゆく」のか、
「ついてゆく」のか、
というちがいってえのは、
ぼくにはよくわかっていない。

心の岸辺に、
赤い花が咲くかどうか。
なのかもしれないか。

「離れてゆく」にしろ、
「ついてゆく」にしろ、
別れもあれば、出合いもあって、
そんなふうに、
季節も、時間も、時代も、過ぎてゆくのでしょう。

令和3年3月4日


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