沈黙のことば。
「ことば」について、吉本隆明さんは、
「指示表出」と「自己表出」のふたつに分けられる、
と、ご説明されていた。
このことは、吉本さんの講演
『芸術言語論 −沈黙から芸術まで』
の中でお話しされていたことなのですが。
たとえば、前者の
「指示表出」とは、
コミュニケーション専用であり、
他人との交通であり、会話であり、
社会的に有効な労力としてのことば、そして、後者の
「自己表出」とは、
自分自身の内緒のことばであり、
自分が自分に問いかけたり発したりすることば、つまり、
コミュニケーションとして使わないことば、
というような、この
「指示表出」と「自己表出」に分けて考えると、
ことばについて考えやすいのではないか。
と、おっしゃっていたのだった。
ぼくはさ、この吉本さんの講演を聴いたのは
20代後半ごろだったと存じますが、
このことを聴いたことで、このころ、
ことばについて悩んでいたのが、どことなく
その悩みが晴れたように感じたのよね。
つまりはさ、ことばって、
コミュニケーションで使うものであり、いわば、
コミュニケーションのためのものである、
みたいに思っていたのが、
じつは、それだけではなくって、
他人とのコミュニケーションではない、
じぶん自身だけに通じているようなことばもね、
ことばのうちのひとつである、というのは、
なるほどぉ、と思ったの。
吉本さんは、このふたつの言語を
「樹木」で喩えると、
コミュニケーション専用のことば(指示表出)とは、
葉っぱが芽吹いたり、お花を咲かせたり、枝を伸ばしたり、
という箇所であり、また、
じぶん自身だけに通じることば(自己表出)とは、
樹木の幹だったり、樹木の根っこだったり、
という箇所である。つまり、
他人とのコミュニケーションとは、
「枝葉」の問題であり、そして、
その幹や根とは、
沈黙の幹、及び、沈黙の根、なのだとして、
言語におけるいちばん重要な「根底」である、
とのことでして。
そう考えてみると、たとえば、
ことばのうちのひとつであるとされる
「沈黙のことば」というのは、
沈黙だから、
「無い」のではなくって、
沈黙は、沈黙のままで
「存在している」というのは、
なんか、よいなあと思ったのよね。
ぼくは、どちらかと言えば、
他人とのコミュニケーションというのは、
苦手なほうでもあるから、
吉本さんのおっしゃるこのことって、
コミュニケーションは大切でありながら、でも、
コミュニケーションのことだけを
考えなくてもよい、とも言われているようで、
どこか、生きる勇気が出てきたんだった。
そんな、ぼくは、
これからもなお、
ぼく自身の沈黙を育てることができたら。
令和4年8月23日