第38回 言葉にがんじがらめに
【吉本隆明さん講演『喩としての聖書−マルコ伝』を聴く聴くシリーズ、だい38かいめ〜。】
こんにちは。それでは、きょうも、、、
あの、そういうふうに考えていきますとね。聖書、新約書って言うのはねぇ。あの、新約書、特に新約書の主人公ですよ。主人公のイエスって言うのはね、もう、言葉にがんじがらめに捉(とら)えられてるわけなんですよ。(チャプター07 / 聖書のなかで信じられていること_9:24〜)
ここで吉本さんおっしゃる「そういうふうに」とは、前回noteでの「言葉だけは過ぎて行かないよ。」のことで。そして、新約書の主人公・イエスは、ことばにがんじがらめになっている。と。
がんじがらめにされて、登場するわけですよ。
ことばに、がんじがらめに。。
で、なん。どういう言葉にがんじがらめにされているか? って言うと、旧約書の言葉にがんじがらめにされてるんですよ。
「旧約聖書」のことばに、がんじがらめ。
つまり、旧約書にある預言っていうものにね、がんじがらめにされて、登場してるのが新約書の主人公のイエス、って、なんですよ。
それとはつまり、「旧約書の預言」にがんじがらめにされて登場するのが、「新約聖書」の主人公・イエス。
と、そー言えば。以前、たしか内田樹さんの著書だったかなぁ。「預言」と「予言」のちがいについて書かれていたのを読んだけどれも、なんだったかちょっと覚えてない・・・
で、ことごとくそうです。あの、ことごとく、って言うとまた怒られちゃうからね、ことごとくって言わないですけど。非常に多くの部分がね、新約書、つまり多く預言される部分はね。イエスが預言する部分とか、預言する部分ていうのは、ほとんど全部が旧約書から取られたものですね。取られたもの、引用されたものですね。
っていう、この「ことごとくそうです。って言うとまた怒られちゃうから『ことごとく』って言わないですけれど。」のところ、なんだかすきなんだよね。「言わない」と言いながらも、言ってるじゃん! と思いまして。
あの。えーと、講演をつづけます。
そういうふうになってるんです。つまり言ってみれば、新約書の主人公・イエスって言うのはね、言葉っていうものにがんじがらめに絡み取られてね、それで登場している。と言えば言えないことは無いくらい、言葉が新約書のなかで氾濫しているわけです。
ことばが、新約書のなかに氾濫。。。
しかも、その氾濫している言葉ってのは、ことごとくと言っていいくらい、旧約書の言葉に氾濫して。旧約書の言葉に、あの、言葉の氾濫に捉えられているわけで。
その氾濫している新約書のことばは「ことごとく」と言っていいくらいに、旧約書の言葉の氾濫に捉えらえている、と。
かろうじて、そうじゃなくて捉えられない見事な部分ってものを探していくと。僕が言ったようなところがかろうじて残るわけですよ。残るわけで。あとはほとんどね、旧約書の言葉に絡み取られて登場するのは、新約書のイエスなんですよ。
そうじゃあない、捉えられていない部分を探せば吉本さんがこれまでおっしゃった箇所がかろうじてのこる。の、あとはほとんどそーいうふうで。。
で、それほどね、言葉っていうものは聖書のなかで大きな部分を占めているわけです。
それぐらい、言葉とは、聖書のなかで大きく占めてる。
で、それは預言的な言葉で言えば「神の言葉であり」って言うふうになるわけですけどね。それほど、だいたい、主人公自体が言葉にがんじがらめになって、されて、登場するってようなことが、第一に、第一に、全体的に総体的に言えるわけだ。
とゆうこんかいはここまでー。ほんじつで「チャプター07」が終わりましたので、また次回noteよりつぎのチャプターへ入ってまいります。どーぞ、よいしゅうまつをすごしてね。
平成28年7月16日
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