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自発的と文章における欲求について。

ぼくは日々、この「note」という場所で
こういうようなブログを書いているけれども。
あらためて考えてみれば、ブログとして
文章を書くことって、なんだか
けっこう不思議だよなあと思えてくる。

文章を書いて、その文章を
インターネットで公開すると、もしかしたら
だれかが読んでくれる、はたまた、
ぼくも、インターネット上で
だれかの書かれた文章を読むことができる。

これはよく言われる言い方やもしれないですが、
文章を書かれる職業の方のものではなく、
ある個人の書く文章を、
ある個人が読む、という状況は
インターネットが登場して以来、
発生した状況なのだろうなあ〜。
とは言いつつ、では、
人はなぜブログを書き、そして
ネットで公開をするのだろう?
人は、と申したけれども、つまり、
ぼくの場合は、その理由って
じぶんでもよくわかってない。
これまでのブログの中でも、このことについて
いろいろ考えては記しているとも思うけれども、
はっきりとしたことは言えないのよねえ。

そもそも、人はなぜ
文章を書くのだろう?

相手とのコミュニケーションのためなのか、
それとも、じぶん自身の記録のためなのか、
もしくは、その両方なのか。

たとえば、インターネットやメールや
ブログ及びSNS等が無かった時代には、
人は、どのような理由によって
文章を書いていたの?!
文章を書くのが好きだから、
書いていた、という方もおられれば、
文章を書かないといけないから、
書いていた、というケースもあると思うけれども。

現在42歳のぼくは、インターネットが
普及し始めたのは高校生のころで、
ぼくの実家では、ぼくが大学生になってから
ネットをつなげるようになった。
それまでは、文章を書くなんて
小学校や中学校の授業や宿題として、
作文、読書感想文、レポート(のようなもの)、
という状況でしか文章を書いていなかった、
と思う。つまり、ぼくは文章を
自発的に書いたようなときって、
ほとんど無かったんじゃあないかなあ。
逆を言えば、学校の授業や宿題として先生より
文章を書きなさい、とのように言われなければ
文章を書くなんて思いもよらなかったやもしらない。

小学校や中学校の作文で、まわりの人たちから
ほめられたことなんてぜんぜん無かったけれど、
そういえば、小学三年生のときだったかな、
一度だけなにかのコンクールで選ばれ、
その賞品としてちょっと高級そうな
ボールペンをいただいたことがある、でも、
その作文は先生から添削もたくさんされたと思うし、
文章を書いたときの感覚もあんまり思い出せないな。

このときのことよりもね、小学何年生だったかなあ、
詩をつくるというときにぼくはたしか
「時計」をテーマにして書きながら、だんだん
書いているうちにいろいろたのしくなってきて、
考えたり、悩んだり、推敲したりしながら
完成したときには、なんだか、じぶんなりには
おもしろいものを書けたなあ!
って感じたときがあったんだった。
でも、その詩(のようなもの)だっても先生から
ほめられたりしてないと思うけど、
じぶんとしては満足しながら、
つまり、じぶん自身の自己満足として
うれしかった思い出がある。

そう考えてみるとすれば、そのときの感覚が
じぶんの身体に残っていて、そういうような
「おもしろいものを書けたなあ!」
って思いたくって、今もなお、この
ブログを書いているのやもしらない。
それはさ、つまり、ぼくの中だけの
自己満足ではあったとしても、たとえば、
ほめられもせず、なおかつ
くにもされず、であるのならば、
それはそれですばらしいのかもしれない。

人間には、だれかと
おしゃべりしたい、そして
じぶんの話しを聴いてもらいたい、
という願望や欲求はあるのだとしても、
文章を書きたい、そして
じぶんの文章を読んでもらいたい、
という欲求はどれほど具わっているのだろうか。

令和6年5月24日


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