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とあるなにかの兆しとして。

一昨日、あるレストランで食事をしてから
お店を出て駐車場へと行くまであいだ、
花壇及びプランタがあって、そこで咲く
いろいろなお花を観ていたら、
そのなかでね、たぶん、おそらく
ひまわりが、まさにもうすぐにも
咲き始めようとしていたんだった。

この花びらが、内側に
きれいに畳まれている感じがさ、
なんだか、竹細工のようで、
美しいなあ! って感じたのよね。

これは一昨日のことだったので、
もしかしたら、昨日の朝ごろには
悠然と咲き誇りながら、そして今日には
それはもうとてもあざやかに、
陽の回りを向き続けようとしているやもしらないな。

そんな日を待っているかのごとくの
このときのひまわりは、
つぼみの内側で、いったい
なにを想っていたんだろうか?

それは、ぼくには
わかるはずもないけれども。
でも、なんだか、
これから咲くんだ! という、
決意を感じられるような気もするから。

ひまわりの、この
決意のごとくの気配が、
とあるなにかの兆しとして、
表れているようにも思える、というか。
その兆しを、ぼくもまた
あやかれたい、と申しますか。

そう考えてみれば、今のぼくもまた
つぼみなのかもしれない、
とも思えてくる。

竹細工のように、内側に
きれいに折り畳まれながら、
明日の開花を今まさに待とうとしている、
ひまわりのようでありたい。
そんな兆しを、
日々、持ってたい!
と思うかのごとく過ごせたい。

令和6年7月21日


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