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複雑なことを解釈するための練習として。

数か月前、パートで勤めている学習塾にて、
とある中学生の生徒さんが、
数学の問題を解いているときに
「こんな問題解いて、将来の何の役にたつの?」
と訊ねてきた。

こういう質問って、
たびたび訊かれながら、その都度、
ぼくはなかなかうまく答えられていないんですが。
このときはさ、
父が亡くなってから数か月が経ち、父に関する
もろもろの手続きのことをしていたころで、
そのことをずっと考えていたので、
ふと思いつき、ぼくが話したのが、、

「数か月前にね、ぼくの父親が亡くなって、
今、父のことでいろいろ手続きの書類を
書いたりしていて。
その手続きのことがさ、かなり、
複雑で、ややこしくて、むつかしいの。
役所の人に訊ねたりしながら、
なんとか、やっているんだけど。
だからさ、こういう数学の問題とかもさ、
この問題自体は、将来にはあんまり関係ない、
ということもあるかもしれないけれど。
社会には、複雑で、ややこしくて、
むつかしいこともたくさんあって。
それらのことを、
解釈しようとするための練習として、
学校の勉強があるかもしれないよね〜。」

‥‥みたいなことを伝えたんだった。

このぼくの説明ってえのは、ぜんぜん、
論理的でもないやもしれんけど。
質問してきた彼は、その後また、
数学の問題を解き始めた。
いや、それはさ、ぼくのことばが響いたというよりも、
たとえば、彼にとって、
講師がわけわからんこと言ってきたから、
もう、あきらめた。
とも取れるかも、なのですが。。

昨日のブログでは、
「頭が良い」ということについて書きまして。
つまりはさ、頭が「良い」とか「悪い」とか、
ってゆうのもね、
学校では、点数と順位と偏差値によって、
他人と比較して「良い・悪い」を表されるのが、
社会という場所では、
じぶんの目の前にある問題を、
じぶん自身がどうするのか?
というような事態も出てきて。
それはさ、他人との比較ではなくって、
じぶん自身の問題だ。
みたいなことも言えるかもしれないか。

なんか、けっきょく、またもや、
うまく言えてないんだけれど、
「頭が良いかどうか」のことを考えてたら、
このことを思い出したんだにゃー。

令和4年2月22日