「何をもって憶えられたいか」と「受動態」のこと。
さくじつのブログでは、
「何になりたいか」的なことを、
あらためて考えていたら、ふと、ドラッカーの
「何をもって憶えられたいか」
ということばを思い出したことを記しました。
「何をもって憶えられたいか」
ということばとは、
ドラッカー著『非営利組織の経営』や、そして、
上田惇生さん著『ドラッカー入門』等でも、
書かれているとぞんじますが。
『非営利組織の経営』より引用を申しあげますと、、
‥‥とのことなのですが。
「何になりたいか」
のことを考えてたら、この
「何をもって憶えられたいか」
という問いを思い出したのは、
なんだか、面白いなあ、って、
じぶんとしては思ったのよね。
つまりはさ、このふたつの問いとは、
意味としては似ているけれど。
「何になりたいか」は能動態、
「何をもって憶えられたいか」は受動態、
というような、文法的には真逆だから。
たとえば、
「何になりたい」という夢があって、
その夢を叶えようとすること、
つまり、能動的に行動することは、
すばらしい。でも、ぼくのように、
そういう夢が思いつけなかったとすれば、
「夢」を無理にこしらえなくても、
よい、というか。
そういうような場合には、もしかしたら、
「能動的」じゃあなくって、
「受動的」に過ごすのも、
わるくないのかもしれない。
なんとゆうか、じぶんのように、
下手に能動的に動けば、
空回りもしがちだけれど、
受動的、つまり、受け身で動くならば、
そういう空回りも減るやもしれないな。
もうすぐの来月で40歳に成るぼくは、でも、
「何をもって憶えられたいか」
という問いには、まだ、
うまく答えることができない。
「何をもって憶えられたいか」
を、折に触れて考えたい。
そして、
「能動」と「受動」を合わせながら、
過ごせたい〜。
令和4年2月15日
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