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「何をもって憶えられたいか」と「受動態」のこと。

さくじつのブログでは、
「何になりたいか」的なことを、
あらためて考えていたら、ふと、ドラッカーの
「何をもって憶えられたいか」
ということばを思い出したことを記しました。

「何をもって憶えられたいか」
ということばとは、
ドラッカー著『非営利組織の経営』や、そして、
上田惇生さん著『ドラッカー入門』等でも、
書かれているとぞんじますが。
『非営利組織の経営』より引用を申しあげますと、、

 私が一三歳のとき、宗教の先生が「何によって憶えられたいかね」と聞いた。誰も答えられなかった。すると、「答えられると思って聞いたわけではない。でも五十になっても答えられなければ、人生を無駄に過ごしたことになるよ」といった。
 長い年月が経って、私たちは六十年ぶりの同窓会を開いた。ほとんど健在だった。あまりに久しぶりのことだったため、初めのうちは会話もぎこちなかった。すると一人が、「フリーグラー牧師の問いのことを憶えているか」といった。みな憶えていた。ある者は四十代になるまで意味がわからなかったが、その後、この問いのおかげで人生が変わったといった。二五ぐらいになってから考え始めたという者も何人かいた。
(P.F.ドラッカー著/上田惇生訳『非営利組織の経営』219-220頁より引用です。)

‥‥とのことなのですが。

「何になりたいか」
のことを考えてたら、この
「何をもって憶えられたいか」
という問いを思い出したのは、
なんだか、面白いなあ、って、
じぶんとしては思ったのよね。

つまりはさ、このふたつの問いとは、
意味としては似ているけれど。
「何になりたいか」は能動態、
「何をもって憶えられたいか」は受動態、
というような、文法的には真逆だから。

たとえば、
「何になりたい」という夢があって、
その夢を叶えようとすること、
つまり、能動的に行動することは、
すばらしい。でも、ぼくのように、
そういう夢が思いつけなかったとすれば、
「夢」を無理にこしらえなくても、
よい、というか。
そういうような場合には、もしかしたら、
「能動的」じゃあなくって、
「受動的」に過ごすのも、
わるくないのかもしれない。
なんとゆうか、じぶんのように、
下手に能動的に動けば、
空回りもしがちだけれど、
受動的、つまり、受け身で動くならば、
そういう空回りも減るやもしれないな。

もうすぐの来月で40歳に成るぼくは、でも、
「何をもって憶えられたいか」
という問いには、まだ、
うまく答えることができない。

「何をもって憶えられたいか」
を、折に触れて考えたい。

そして、
「能動」と「受動」を合わせながら、
過ごせたい〜。

令和4年2月15日


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