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「批判」は必要か否か?

複数人で何かを話し合うときには、他人の意見に対して
「批判」をすることは必要か否か? と思うとしたら、
ぼくの素人考えとしては、ある場面によっては
批判することも大切なのではないかなあと思う。

でも、たとえば、集団発想法としての
「ブレインストーミング(ブレスト)」では、
誰かの話した考えを批判しない、
という原則もあるのだし、それはつまり
みんなでたくさんの発想を出そうとするときは、
批判されると思えば、萎縮して
意見を出すのも躊躇してしまうから、
というのがこの原則の理由かなあ?
はたまた、ぼく自身だってもね、
批判されるのはつらいし、なおかつ、こわい。

けれども、ならば何も批判せず
すべてを肯定する、というのも
現実的では無いようにも思える。

このごろのブログでは「国会」についてしるしていたので、
今回もまた、この国会より考えてみるとすれば、
国の主権者である国民の選挙によって組織される
「国会」に属する国会議員は、つまり、
国民の選挙結果より選ばれるのだから、
国民にはいろいろな人がいるように、
国会議員にもいろいろな人がいるのだろう。
この「いろいろ」というのはさ、
年齢であったり、出身地であったり、
立場であったり、考え方であったり、
価値観であったり、好き嫌いであったり、などなど、
それらがすべて、全員、
合致することなんてありえないからこそ、
話し合い(議論や審議)が行われる。

その話し合いの中では、やっぱり、
考え方のちがい等によっては、
ある考えを批判する人も登場するだろうし、
そして、最終的には
多数決の数によって決まることもあるのだろう。

何かを批判するときには
「対案」を出すこと、
という意見もあるとも存じますが。
ぼくは、必ずしも
対案は出さなくても良い、と思うの。
批判をするときは、絶対に
対案を出さなければならない、としたら、
対案を出せないような立場の弱い人たちは、
強い人に対して批判をすることすら出来なくなる。
つまり、たとえば、
子供は大人に対して批判できなくなる、みたいな?
でも、子供だって、ある大人がすることを
嫌だと感じる場合があるならば、その大人たちに対して、
それは嫌だ!
それはダメだ!!
それは良くない!!!
と、批判しても良い。
このときには、対案なんて無くても良い。
そして、ある場合によっては、
批判された側が対案を考えることもあるのでしょう。

もちろん、批判をする側が対案も準備して
批判へ臨む必要がある場合もあるだろうけれども、
でも、「批判の際には対案を出す」というのを
絶対的なルールにはしないほうが良い、
と、ぼくは思うんだけどねー。

いや、なんだか話しがまとまらないけれども、
ある問題についてきちんと考える、って、
どういうことなんだろう? と思うよ。

令和6年1月23日

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