ぼくと権力者の人生。
ぼくの人生は、
ぼくの意思だけで、
決められるわけじゃあない。
ぼくの人生とは、
ぼくの家族の意向も、
関わってくるのだろうし。
はたまた、
ぼくの人生とは、
ぼくが所属する団体や組織、もしくは、
地域や国家によって、
決められることもあるだろう。
たとえば、
ぼくの知らないあいだに、
国家の成り立ちが変化してしまえば、
国家の変化と同時に、
ぼく自身の成り立ちまでもが、
ぼくの知らないあいだに、
変化してしまうこともあるやもしれない。
つまりは、
ぼくの人生とは、
あらゆる権力者によって、
決められている部分がある。
とも、言える。
それは、でも、
よくも、わるくも、
であるとも思うけれども。
ともすれば、たとえば、
権力者の人生とは、
権力者自身が決められるんだろうか。
権力者は、
権力者が率いる組織や団体や国家を、
権力者の持つ権力によって、
権力者が考えたいように
変化させることができる、として、その
権力者が変化させた組織や団体や国家が、
権力者の人生にとってすばらしい
組織や団体や国家に変化させられるかどうか。
逆に、
権力者が、権力者自身の持つ
権力を行使しようとすればするほどに、
権力者自身にとっても、
住みにくい世界に成ってしまうことも
あるやもしれない。
もしかしたら、
クーデターも、
起こりうるやもしれない。
権力者の人生も、
ぼくの人生も、
権力者が持つ権力に左右されている、
とすれば、
権力とは、
なんのためにあるんだろうか。
権力にも、
「よい権力」と「わるい権力」が
あるんだろうか。
よい権力、
というものがあるとすれば、その
よい権力によって、
ぼくの人生も、権力者の人生も、
よいものに成れたらよいのに。
令和4年3月30日