義務という鉄板の上で。
さくじつのブログでは、義務教育とは、
「教育を受ける義務」ではなくって、
「教育を受ける権利」があること、そして、
日本国憲法では、保護者が
子供(子女)に普通教育を受けさせる義務を負う、
と定められていることをね、あらためて記しながら、
ふと、思ったのは、
このことを学校で習うのはさ、
義務教育も終わりに近づいた
中学3年生の「公民」の授業なのだとすれば、
逆にね、義務教育がスタートする
小学1年生のとき、これから始まる
義務教育のイントロダクションとして、
伝えられる、ってゆうのもよいのやもしれない、
みたいなことを思って、ブログ書いたのですが。
このことでね、たとえば、
ぼくが小学1年生だったころには、
これから始まろうとする学校の勉強に対して、
ぼくは、ある種の義務感として、
ちょっと我慢するかのように、
臨もうとしていたかなあ?
って思い出してみると、
小学1年生ではさ、たぶん、けっこう、
「これから勉強がはじまるんだ!」
「がんばりたい!!!!!!」ってさ、
勉強のことを、素直に、純粋に、希望的に、
たのしみやわくわくを感じていた、
というような気もするんだよね。
でもそれが、だんだん、
学校の勉強も、
ある種の義務感のようにして、
だるい、めんどい、先生うざい、的な、
そんなふうにも思えてきてしまって。
毎日、毎日、ぼくらは、
義務という鉄板の上で、
勉強もいやになっちゃうよ〜。
みたいな光景を想像するのですが。
ならば、どうすれば、
「教育を受ける権利」を行使するかのごとく、
たぶん、たしか、さいしょのときには、
たのしみやわくわくを感じていたやもしれないように、
勉強のモチベーションを、
保つことができるかなあ???
ってゆうのはさ、ぼくは、
知らないけど〜。
でも、なんだか、たとえば、
「教育を受ける権利」と言えば、
能動的な感じもするけれども、
「受ける」ということはさ、
受動的な感じもあるじゃん。
つまりはさ、勉強というのは、
能動的、かつ、受動的に、
行われることだと思うんだよね。
勉強とは、
「能動」だけでもできないし、そして、
「受動」だけでもできない。
ならば、
「能動」と「受動」を、
同時に行おうとすること、これが、
勉強の肝だと思うんですが、
どうなんでしょう?!
とは言ってみても、
「能動」と「受動」ってゆうような、
正反対のことを、
同時に行う、って、
ほんとうにできるのかなあ?????
このことを考えるときにね、ぼくとしては、
うまく言えないんですが、
能動的、つまり、
積極的に「受動的」になること、
というのを想っている。
たとえば、
積極的に「能動的」になるのは、
強過ぎるし、逆に、
消極的に「能動的」になるのは、
弱くなってしまうそうだし、はたまた、
消極的に「受動的」になるのは、
打たれるだけになってしまいそう。
ならば、この、
積極的に「受動的」になるのが、
いちばんバランスよさそう、というか。
これを言い換えれば、
「能動的に受動すること」
ってゆうのを、イメージしたいの。
というふうなことを思いながら、
健闘を祈りたい。
そして、
健闘を祈られたい。。。
令和4年9月30日