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「鑑賞」とはなにか?(地下二階と体験とインと)

音楽だったり映画だったり美術だったりなどをね、
ぼくは鑑賞するのが好きなのですが、でも、
この鑑賞しているときには、ぼく自身の身体の中で
どのようなことが行われているのか、
ってえのはぼくもよくわかっていない。

たとえば、鑑賞をすることって、
「インプットする」ともよく言われるじゃない?
ぼくの場合だったらばインプット、つまりはさ、
「身体の中へと取り込んできちんと記憶しておく」
みたいなことってぜんぜんできてないから、
ぼくの鑑賞って、まったくもって
「インプット」とは言えないんだなあ。
むしろ、どっちかと言うと
「鑑賞」とは、ほんとうに
「インプット」と呼ぶべきなのかどうか?!
ってゆうのも疑問に感じたりもする。

このごろのブログでしるしております
村上春樹さんの仰る「地下二階」のことで考えてみれば、
たとえば、人間を「家」と見立てて、
一階が生活のフロア、
二階は寝室やプライベートのフロア、
地下階はものをストックしたりするような
すこし奥まった空間、そして、その
地下階には隠れた別の空間(地下二階)が存在している、
ということにおいて、
「インプット」と言えば、なんだか、鑑賞した物事を
「地下階」の空間にストックするかのごとく、つまり、
物置の場所にためておく、的な???
ぼくが感じているのはそうではなくって、やっぱり、
「鑑賞」とは、「地下階」ではなくって
「地下二階」のほうに属するじゃあないかなあ。

つまり、たとえば、
物語を鑑賞することにおいて、
物語とは「地下二階」に属していて、
そして、この物語を鑑賞する人も
じぶん自身の「地下二階」で鑑賞をしている。
つまりはさ、いわば、この
「地下二階」の空間の中へ入り込むようにして、
言い換えれば、「地下二階」で起こる出来事を
体験するかのようにして鑑賞をしている。
そういうふうに考えてみるとね、
うまくは言えないんですが、いわゆる
インプットとか、記憶とか、ストックとか、入力とか、
みたいなことではなくって、
鑑賞とは、もっと、ダイナミックに
身体ごとで行われる体験なのだと思うのよね。

さらに、また、
「鑑賞」が「インプット」なのだとすれば、逆に
「表現」は「アウトプット」と言われるともぞんじますが。
そんな、なんというか、ぼくは
コンピュータじゃあないんだから、データを
入力及び出力するかのようにも出来ないから。

「インプット/アウトプット」つまり
「Input/Output」というのは、
「put」という英単語が関連していると思うけれど、この
「put」にはたくさんの意味があるとも思うのですが、
そういうような、いわゆる
「鑑賞」や「表現」という意味としても、
このことばは使われているのでしょうか?
ぼくは英語のことはよくわからないので、
「インプット」や「アウトプット」とは言わないで
「鑑賞」及び「表現」でやってゆきたいんだけどねー。

どちらかと言えば、じぶん自身の
身体の中へ「イン」させるよりも、
物語の中へ「イン」したい〜。

令和5年12月30日

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