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ことばには「力」がある、と言うことができるか。

前回noteでは、ことばの持つ「力」について
考えたことを記していたですが、そのブログの中では
【ことばとは、基本的には
 だれしもが利用できる、いわば
「オープンソース」のようなものなのだから】
とも申したけれども、ここでぼくが
【基本的にはだれしもが利用できる】
と記したのは、たとえば、身体及び精神の障害によって
言語を使えない、もしくは、
乳児は言語を話すことができない、さらにまた、
幼児及び子どもたちは大人よりも言語を知らない、
などのような状況はあるのだから、
「基本的には」と記さないといけないと思ったんだった。

そしてさらには、ぼくは
大人の年齢ではあるけど、どちらかと言うと
ことばをうまく使えないと申しますか、
とくに、咄嗟のアドリブでことばを返すのは
ぼくはかなり苦手なのですが。
そういうような、
ことばでうまいこと言えたり、
ことばを咄嗟に思いつけたり、
というようなことばに達者な人のほうが
出世できたり、モテたり、生きやすかったり、
するのだろうかなあ? みたいなことをね、
ことばで愚痴ってしまうようなぼくだけれども。

でも、仮に、そういうふうに
考えられるとするならば、
ことばをより持つ者のほうが強い、
というふうにも言えるのかなあ?!
ともすれば、この仮説より考えれば、
ことばには「力」がある、
って言うことができる気もする。

独裁者とも言われるような権力者が、
ときに、反体制側の人間の言論及び活動を
封じようとされる状況もあると存じますが。
それはつまり、反体制側、つまりは
反権力者側のことばによって、権力者側である
じぶん自身の立場がくずれる可能性もありうる、
というふうに考えられるからなのだろうか?
ともすれば、このこともまた、逆を言えば、
ことばには「力」がある、
と考えられる根拠のようにも思われる。

さらに言うとすれば、
ことばには「力」がある、を言い換えれば
ことばとは「権力」である、
とも言えるのかなあ。
そう考えると、ことばって
とてつもなくこわいよなあ、
というふうにも思えるけれど。

多くの、もしくは、少なくともの
ことばを持つ人は、
ことばに宿るその力を、
何に、及び、どのように使うか?
ってゆうのを考えながら、ことばを
使ってゆく必要があるやもしらない。

ぼくは現在、学習塾講師として仕事上
小中学生及び園児の方々と接する機会があるけれども、
彼ら彼女らは、ことばによって
じぶん自身の気持ちを表現することが、
できがたい場面もあると考えられる。
だからこそ、塾講師であるぼくは、彼ら彼女らの
ことばにならない気持ちを聴き取れるようであれたら。
って思いながら、でも、そんなことって
ほんとうにできることなのかなあ? とも思いつつ。

令和6年2月21日

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