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報道と恵みの雨。

一昨日、テレビ朝日系列の「報道ステーション」では、
日本各地において豪雨や台風による被害が相次ぐ一方、
新潟県妙高市では深刻な水不足に陥っており、
お米どころの新潟の農家さんは大変な事態に直面している、
というニュースを拝見しながら、ぼくは
何年か前のことを思い出していたんだった。

何年か前、今年と似たようにして
日本各地で大雨が降っていたけれど、
ぼくが住んでいる愛知県豊橋市の地域では、
水不足に陥り、市内では
節水が呼び掛けられていた。
そのころ、他県で住んでいる友人と会ったときにね、
ひとつの話題として、ぼくが
「今、豊橋では水不足で大変なの。」
と伝えると、彼は
「え? 全然知らなかった。」と言った。

この彼のことばを聞きながら、でも、
今は日本中どこも大雨で大変なのだし、
水不足のことはニュースで報道されないし、
そりゃあそうだろうなあ、ここで住んでなければ
知らないだろうなあ、って感じたのよね。
そしてその後、この地域の水不足のことは
ニュースで報道され、たしか、このときは
四国のある地域でも同じく水不足になっている、
というふうにも言われていたとぞんじますが。
当時、日本各地では大雨が降り続く中で
ぼくが住む地域では水不足になっていて、
このことは、他の地域の人々には
ほとんど知られていない、というのは、
一抹のさみしさも感じたんだった。

このことを今またあらためて考えてみると、現在、
もしかすると新潟だけでなくて、他のどこかの地域でも
水不足になっているやもしらないし、そして、
水不足のことだけでなくって、
なかなか報道もされないまま、
ぼくらも知らないまま、でも、
何かしらの重大な事態となっている地域だっても、
たくさんあるやもしらない。もしくは、
報道はされていたんだとしても、
もっともっとその深奥のところでは、
報道されていない大変なことも、
たくさんあるのだろう、とも想像する。

すべての世界のニュースが、
すべて報道されるわけはない。

つまり、完璧な報道なんてない。

報道によってぼくらが見聞きできる出来事は、
世界のすべてから見れば、
ほんの一部でしかないとも思うけれども、
でも、その一部だけでも
貴重なニュースだとも言えるやもしらない。
けれども、たとえば、
報道する側の立場的なこととか、
視聴率及び売上げ的なこととか、
あえて報道しないこと、かつ、
プロパガンダのようなこともあるやもしらない。
とは言えども、ぼくらは
そのような報道及びニュースによって、
世界の出来事を見聞きするほかない。

そう考えてみるとね、
ニュースって、なんだろう?
とも思ったりするよ。

雨のことについて、今後、
どうか、どうか、各地において
適度な感じで雨が降ったり止んだりしますように。

令和5年8月18日


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