自分の持ち物、自然の状態。
前回noteでは、たとえば、相手に対して
「このことを言おう!」と思いながら、
でも、それを言ったあとには、
「言うべきではなかった」
「言わなければよかった」
「言い方をもっと考えればよかった」
って後悔してしまうことがある、
というような、悩み、みたいなことをしるしまして。
そういうようなときにおいて、
言ったほうがよいことだけを言い、
言わないほうがよいことは言わない、
言うべくときは適切な言い方で言う、
みたいなことが、ぼくは、
どうしたらできるようになるんでしょうか?!
って、ブログで書きながら、
頭の中で思い出していたのはさ、
吉本隆明さんの講演『喩としての聖書』にて
吉本さんのおっしゃっていた
【そのときに授けられたことばを言え。】
ということばでした。
このことについてはね、
今年の9月にもブログでしるしていたですが、
なかなか、やっぱり、
こころの底から思うには至っていないんだなあ〜。
講演にて吉本さんのおっしゃるには、
新約聖書マルコ伝によれば、
ことばというものは、
聖霊が言わしてくれるのだから、
「どう言おうか」とか、
「どう考えるか」とかは、
思いわずらうな。ただただ、
そのとき出てきたことばを言えばよいんだ。
また、
「どう言おうか」ということを
「考えるな」と言っているだけじゃあなくて、
それを「考える」ことは、
よくないことだ、とも言っていると思う。
このことについて、キリスト教の「経典」という
宗教書として読むのではなく、
思想書として読むのだとすれば、つまり、
【自然状態で言われることばというものは、
必ず、自分の持ち物に背かないものだ。】
だからこそ、
【そのときに授けられたことばを言え。】
とのようにお話しをなされます。
そもそもを考えてみるとね、
あらゆる場面において、
「ことば」を思いつく、ってば、
どういうことなんだろう?
たとえば、
なにかを見たときに、
なにかを読んだときに、
なにかを聴いたときに、
だれかへ話しかけるときに、
だれかと話しているときに、
ひとりきりで考えているときに、
ことばを思いつくときもあれば、
ことばを思いつかないときもある。
はたまた、人によって、
思いつくことばがちがうことだってもある。
そういうような「ことば」って、
どんな原理によって、
思いついたり、また、逆に、
思いつかなかったりするんだろう?
って考えてみても、
ぜんぜん、わからないけれども。
でも、なんだか、
そういうときにはさ、
吉本さんのおっしゃるような
【自分の持ち物】というものがあって、そして、
自然状態で言うことばとは、つまり、
【自分の持ち物】である。
と、そう考えるとすれば、この
【自然状態】いう状態で、
ことばを言うことができるならば、
そのことばとは、ぼく自身の【持ち物】である。
とも言えるのかな。
ならば、ぼくは、おそらく
「自然の状態」ではなくって、たとえば、
なにかしらのやましさのような
気持ちがもたげているかのごとく、
「不自然の状態」にあるんだろうかなあ。
どうか、
自然であれたら。
と、ねがえたいな。
令和4年12月21日