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セーフティーネット的。

「本を、どれだけ読んでも、
学ぶことはできない。
人と会って、実際に話さないとね。」
みたいな意見をね、
ときには聞いたりして。

それはさ、
正しい意見かもしれん、とも思うし。
また、読書をするじぶんにとっては、
けっこうつらいんだけれども。

あらためて考えてみれば、
べつに、おれはっ、いや、ぼくは、
学ぶためだけに本を読んでいるわけじゃねえー!
って思ってしまうの。

どちらかと言えば、ぼくは、
「人と会う」のって、
いやだ、とか、きらい、とかではないんですが。
ちょっと苦手なほうではあって。
一時期では、半ひきこもり、
みたいな時期もあった。

そういうような、
人とは会えない時期にでも、やはり、
さみしさの気持ちは募って。
そんな時期に、
そのさみしさを慰めてくれるのが、
「読書」だった。

つまりはさ、
そのときのげんじょうで、
「本を読むことしかできない人」が、
本を読む。的な?????

読書をすることってば、
それ以上でも、それ以下でも、
ないような気がするのよね。

究極で言ってしまえば、
「人と会って、実際に話さないとね。」
とおっしゃる人には、
人と会うことが「できる」のだから、
本を読む必要も無いんじゃあないの。
とも、思ってしまう。

ごめんね。。。

でもでも、それだけ切実に、
本を読まないと生きてゆけない、的な、
「読書体験」とゆうのも、
あると思うんだよね。

たとえば、
「学ぶために本を読む」と言えば、
今のじぶん自身がさらに「上」へあがるため、
みたいな意味だと感じられるけれども。
このぎゃくに、
「さみしくてさみしくてどうしようもないから、
本を読む」ってえのは、
これ以上「下」へ落ちてゆかないための
セーフティーネット的な意味合いだと、
ぼくは想うのよ。

そういうような、
セーフティーネット的に、
本を読みながら、その本を読むことによって
「学ぶ」ことはあるにしても、
「学ぶ」ことが、第一義、ではない。
とゆうか。

どうしようもないくらいにさみしいとき、
「本」にそばに居てもらうことで、
その一日を、
なんとかして乗り越える。
みたいなことがさ、
いちばんだいじなんじゃあないかね?
と問うたいけど。問うたら問うたで、
「大袈裟な。」とか、
「めんどくさい奴だわ。」とかって、
言われるかもなあ、とも感じてしまって。
訊くに、訊けないんだわ。

読書だけにかぎらず、
音楽や、映画や、漫画や、美術や、写真や、
というのもね、
そういう的なことがあるって、
ぼくは思ってるんだけれども。。

じぶんの本心で言えばさ、
こんなぼくでも、人と会って、
お話しができたら素敵なんだろうなあ。
とは、ねがっているの。

この感覚を、
分かってくれる、
あなたがすきよ。

令和2年8月29日


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