其の四十六 三四郎の追求
《吉本隆明さんの講演『芸術言語論 −沈黙から芸術まで』(平成20年7月19日@昭和女子大学人見記念講堂)を、ぼくが毎回ほんのちょっとずつ聞いてゆきながら、あらためてどんなおはなしだったのかを思いかえしてまいります。》
こんにちはっ。前回noteでは、、
「漱石の場合には、僕が考えに入れたのは『三四郎』という青春小説のことなんです。大学か大学予備校かそういう先生を慕っている学生さんが、その先生の周りに集まっているわけです。あるとき、三四郎が先生のところへ訪ねてゆくと、いつもの常連の学生さんが来ていないんです。そして、たまたま、先生とふたりになるわけですけど、」
と吉本さんおっしゃるばめんでした。このつづきを。。。
そのときに、あの。えー。三四郎は先生に「先生はどうして、どうして独身なんですか?」って言うふうに、「誰か好きな人はおらないのですか?」って言うふうに、あの、質問するわけ。(チャプター09 / 夏目漱石と『三四郎』_1:28〜)
そのとき、三四郎は先生に「先生はどうして独身なんですか? 誰か好きな人はおらないのですか?」と訊く。
まあ普段なら言えないような失敬な質問なんだけど、ひとりだったから、言うわけですけど。そういうふうに言うわけです。
いつもなら言えないような失敬なしつもんだけれど、ひとりだったので、三四郎は訊いた。
そうすると、その主人公の先生は、「いや、好きな人はいた、いたんだ。だけど、いつの頃からかなんかひとりでに間遠になってきて。
‥‥と、この「間遠(まどお)」ということばはぼくは初めて知りました。辞書(新明解国語辞典 第六版)によりますと、
【間遠…繰り返される物事と物事との間隔が隔たっている様子だ。】
とのことです。先生は「いや、すきなひとはいた。けれど、いつからかまどおになり、
いつのまにか、それが消滅したようになってしまった。だから、機会を失(しっ)してしまったんだ、と。結婚する機会も失してしまった。」ということなんだ、と説明するわけです。
それが消滅したようになってしまった。だから、結婚する機会もしっしてしまったんだ。」と説明する。
それで三四郎は、まだ追求して「それならば、その人は今も生きてたら結婚する…。今もその人が生きていたら、生きて、消息がわかったら、結婚するか?」って言うふうに、三四郎はなおも追求するわけです。
三四郎はまだ追求して「それならそのひとが今も生きていて、消息がわかったら結婚するか?」と訊く。
すると先生は「そうすうと思う。」と。「別に嫌いになってそして別れた、っていうわけでもないから、そうすると思う。」というふうに言うわけ。
先生は「べつに嫌いになって別れた、というわけでもないから、そうすると思う。」と答える。
それで、「そうですか、それじゃあどうして探さないんですか? その人の消息を探さないんですか?」って、なおも追求するわけです。
すると三四郎はまだまだ追求して「それじゃあ、どーしてその人を探さないんですか?!」と訊く。。。
三四郎、追求しすぎ‥‥。このつづきは次回noteで聞きますっ。蒸し暑くって、汗がじんわりにじむ〜。
平成28年9月29日