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師弟関係とオリジナリティのこと。(言語と額縁と表現と)

数年前、とあるグループディスカッションに参加して、
どのような話しの流れだったかは忘れてしまったけど、
あるとき、ぼくが
「師匠から学ぶようなことが大切だと考えている。」
みたいなことを申しあげると、ある男性から
「それは、一番やってはいけないことだ!
 オリジナリティが損なわれてしまうから。」
とのように、非常につよく否定された。
このことばを聞き、ぼくはその返答として
「なんにもできないようなどうしようもない私は、
 そういうようにしてしか学ぶことができない、と、
 あるとき気がついて、それ以外には
 どうしようもなかった。」と伝えると、彼は
「そうだったのですか。」とおっしゃって、その
ディスカッションの時間は過ぎて行ったけれども。
でもなんだか、その後、このときのことを
ときおり思い出してはじぶんの中で考えているの。

今、このことについて考えるとすると、
「師弟関係」とは何か? 及び、
「オリジナリティ」とは何か?
という問題に分けられると思うけど。
まずはさ、前者の
「師弟関係」について考えるならば、
たとえば、ぼくのすこしだけ存じている知識で申すと、
伝統芸能の落語では、落語家を志したい人は
師匠のもとについて修行をなされる。
素人のぼくには結論めいたことは言えないですが、
技術を継承する、もしくは
文化を受け継いでゆく、という場合には
師弟関係でしか行えないことがある、
というにも考えられるかなあ?????
でも、ぼくがあのとき言いたかったのは、
そのような技術や文化とはすこしちがくて、つまり、
子どもが「ことば」を学ぶ、みたいなことでして。

子どもが、母国語の言語を学ぶときに
両親や保護者より発せられることばを見聞きしながら、
見よう見まねのようにして学んでゆく。
この場合は、師匠について学ぶ、というわけではないけれど、
原理的には、師弟関係的に学ぶのと
けっこう似ている部分があると思われる。
つまり、言語は、じぶんだけの
ひとりきりでは学ぶことができない。
言い替えるならば、師匠的な人が居なければ
学べない事象がある。逆を言えば、
師弟関係を否定することは、その人自身が
母国語を使うことを自己否定するようにも
感じられるのだけれども、どうなのだろう。

そしてここから、前者の「師弟関係」に続いて、
後者の「オリジナリティ」について考えるならば、
じぶん自身だけの「オリジナル」の言語というのは、
存在しない。つまり、
おれだけのオリジナリティの言語を考えた、と言って
なにかを発声したりなにかをペンで書いたとしても、
それは、もう、あまりにもオリジナル過ぎて
その言語をわかる人は誰も居ない。

つまり、まずは言語があって、
その言語の中に、その人の
オリジナリティが内包される、というか。
このときの言語というのは、いわゆる
「額縁」と言い表せるとも存じますが。
絵画作品における額縁とは、
既存の物もあるのだろうし、また、
じぶん自身で作成する場合もあるとは思いますが、
でも、額縁は、額縁である、と分からなければ、
額縁として機能しない。つまり、
額縁とは、そういうシステムなのだと思う。

まずは言語があって、つまりは、
まずは額縁があって、その中で
オリジナリティが表現されてゆく。

そういうようなときにね、
師匠から学んだとすれば、その人の
オリジナリティが無くなってしまう、
みたいなことは無い、と、ぼくは考える。
逆に、師匠のような存在から学ぶことによって
よりオリジナリティが表現されやすくなる、
というふうにも考えられる気がするのよね。

オリジナリティについてさらに考えるとすれば、
オリジナリティとは、つまり、
他人と全く違うことを表現する、
ということじゃあないと思うの。

それはたとえば、その人が
いつ生まれて、
どこで生まれたのか、なおかつ、
どういうルーツがあるのか、及び、
なにが好きで、なにが嫌いで、
だれと出合い、だれと別れて、
どういうふうに感じ、そして
どういうふうには感じないか、
というようなもろもろのことが
その人の「オリジナリティ」である。
なので、それらのことを
うそいつわりなく表現できれば、
その表現がその人のオリジナルとなる。
そして、このオリジナリティにその人が学んだ
表現技法を組み合わせることによって、
その人のオリジナルの作品となってゆく。
って、ぼくは思うのだけどねー。

なんだかうまく言えてないような気もするけれど、
あのときのことをね、今の
じぶんなりに考えるとすると、
こういうふうに考えるのでした。

令和6年8月29日